花輪理事長の独り言
今回の院長ブログは、先日の医療連携会でお話しした内容を紹介します。
本日は久喜市長様、近藤医師会長様はじめ、医師会の先生方、行政の方々、秩父市議会議員の皆様方、こんなにも多くに方々においで頂き有難うございました。また、日頃からお世話になっている高次医療機関の医療連携室にもお声かけさせて頂きましたが、県立循環器呼吸器センターの星院長、石心会病院の石原院長・石井副院長先生、埼玉医科大学国際医療センターの大谷先生にもお出で頂きました。心から御礼申し上げます。
今回の連携会の主眼である圏域を超えたより広域の医療連携についてのお話しが進んでゆくことを期待しております。
御覧頂けましたでしょうか。
20年前に行った創立110周年記念式典のビデオです。なんとVHSです。この時も記念誌を作成しました。正直、記念誌の作成や式典をまたやるのもいかがか、とも考えましたが、当院と私にとっては、この20年は特別に色々あったと感じていまして、今回は「130周年記念医療連携会」としてこの連携会を開催させて頂くこととしました。実は、20年前の110周年記念式典と記念誌は、父がちょうど90歳を迎える時期で、父の秩父での医者としての半生を祝い、それを記録にも残したいと思い立ったからであります。父も家族もそのつもりであり、記念祝賀会として実に多くの方たち、医療関係者のみならず親族も含め、各界の方々にお出で頂き祝ってもらいました。頂いたお花には、長嶋茂雄さんや柴田選手、兄の関係で、中島悟さん等の自動車レース界や舘ひろしさん他、おおくの芸能人からも祝福を頂きました。
今回は祝賀会とは趣を異にし、あくまで、130周年記念・医療連携会として開催することにさせて頂きました。ご理解頂きたいと存じます。
記念誌を作るにあたり、20年前の記念式典ビデオを見て、20年てこんなにも変わるのだと、改めて思いました。懐かしい方々、病院を去ったスタッフ、私を含めあんなに若かったスタッフを懐かしく思い出します。当院の現スタッフも20年まえにいたのは、僅か十数名であります。常勤医は私だけです。もちろん当時から当院を支えて頂いた多くの先生方が、今でも助けて下さっております。
この20年を振り返って様々な思いが浮かんで参ります。皆さん20年て長いものですね。あたためて考えて見て下さい。生まれてから20歳までの20年、20歳から40、40から60歳、60歳から80歳、二十歳までの20年は誰しも特別でありましょう。でもこれも同じ20年です。私のこの20年は50歳から今の70歳です。個人的には変わったと言えば変わったし、変わらなかったと言えばそれも納得です。ただ、父も母も兄もいなくなり、孫が3人できましたので、やはり大きく変わったと思います。当院の20年はお手元の130周年記念誌に書きました。
110周年の記念式典の時あんなにも多くの方々にご列席を頂き、励ましを頂き、職員達は「いい日旅立ち」を歌い病院は今に向けて出発致しました。
人の変遷と同様に、病院も大きく変わりました。もっとも大きな変化は病院の移転でしょう。私は病院併設のヘリポートが欲しくて、明治20年より秩父神社の隣にあった秩父病院を現在の地に移転しました。かなりの覚悟が必要でしたが、お手元の少し厚すぎる記念誌に、この時の経緯、私の心情も書き残しました。この記念誌にも多くの方々からのご祝辞、励ましのお言葉を賜りました。改めて御礼申し上げます。また職員全員の言葉、各部署の紹介、実績、研修医のこと、様々なイベント、院内保育所の花の子ハウス、すくすくと育った植栽の写真等、残しておきたい事を、目一杯載せました。私自身の今後の当院に対する考えや秩父の医療について、さらに今回の医療連携会の主眼であるより広域の医療連携の必要性についても書き留めました。この記念誌は、今回お越しになれなかった高次医療機関、私共が関わる大学病院の先生方等、日頃お世話になっている方々にもお送りし、ご理解を賜りたいと考えております。少し早い遺言のようになってしまいましたが、お暇な時目を通して頂ければ幸いです。重すぎて申し訳ありません。また、当院のホームページの院長ブログに、記念誌の内容の一部を発信してあります。
さて、医療もこの20年で加速度的に変化、進化しました。より細分化、専門特化し、医療水準も大きく押し上げられました。そして、それを成すには多くの人材と器機、費用が必要となりました。一方で患者さんの変化も顕著であります。救急医療におきましても、重症患者の主体は外傷でなく病気であります。超高齢化の中、当然心臓病、脳卒中等の血管疾患は益々多くなっております。
約30年前にH2ブロカーが発売されましたが、それ以前は胃潰瘍の治療は広範囲胃切除が主体でした。週に1回は胃を切っていた気がします。25年くらい前、心筋梗塞は即、死を意味する疾患でした。脳卒中も同様であり、助かっても多くは後遺症を残す疾患として、我々医師も患者さんも家族も世間も、そう思っていたと思います。しかし、今や医療は進化し、心筋梗塞も脳卒中も早期の治療により、もちろん全てではありませんが、治る疾患となったのです。
そんな変化の中で、私はずっと以前より、地域の医療に大きな問題があると考えておりました。
我々医療者にとって、地域完結医療は目指すべき目標でありますが、これが困難なことはご承知の通りです。私は今まで「地域の病院が連携し、一つの総合病院として機能することが重要である」と言い続けてきました。しかし、今や可能なものと不可能なものがはっきりと見えてきた様です。もちろん進歩した部分もあることも事実ですが、特に心筋梗塞、大血管、脳卒中は相変わらず対処不能であります。しかもこれらの疾患は高齢化に伴い益々増加傾向にあるのです。
さて、前置きはこのくらいにして、今回は医療連携会ですので、本題に入りたいと思います。
先に述べたような背景の中で、「当地域の救急医療の今後はどうすればよいのか」を連携会の主題としてご提案申し上げます。
私は、まず医療者、市民、行政が今一度現状をしっかりと認識することが重要と考えます。その上で地域医療の将来にビジョンをもって取り組む必要があると思うのです。
二次救急病院は減少し、小児二次救急を担う施設はありません。先に述べた心筋梗塞や脳卒中に対しては、相変わらず対処不能です。お産は岩田先生が懸命に頑張っておられますが、これで良しとは決して言えません。皆様はどれくらいの患者さんが、どのような疾患で救急車あるいはヘリで地域外の高次医療機関に運ばれているかご存知でしょうか?
秩父消防の平成29年の資料をご照会します。まず、救急搬送の全体像ですが、
1年間に救急車で医療機関に運ばれる人は4384人います。そのうち急病・つまり病気が2605人(約59.4%)です。この内、重傷者は死亡例の82人を合わせ、335人(12.8%)、ちなみに軽症患者1348、中等症患者は922人、合わせて2270人(87%)であります。
まとめますと、
以前は交通外傷、労災事故等の怪我が多い傾向でしたが、今は急病が半分以上を占め、急病患者の内、重傷者は約13%と少なく、ほとんどが軽症・中等症患者と言うことになります。
疾患別に見ますと、心疾患が246人で一番多く、3番目に脳疾患164人、併せて410人(15.7%)ですが、重傷者に限って言えば、脳疾患が一番で77人、次に心疾患の67人、計144人(57%)と重傷者の半分以上を占めます。ちなみに心疾患の死亡例75人を含めると219人となり実に重症患者の86.5%を心臓、脳疾患が占めることになります。
いかに当地域にとって、心・脳疾患が深刻な状況であるかが分かります。
では年間何人が救急車やヘリで管外の医療機関に運ばれているでしょう。
1年間に管外の医療機関に搬送される方の総数は796人(全体の18%)です。この内、管内の医療機関から対処不能等の理由で管外に搬送される人数は520人、現場から直接管外医療機関に搬送される人数は275人です。実に毎日二人以上の方が管外に運ばれています。
主だった管外搬送先病院を紹介します。埼玉医科大学国際医療センター201人、県立循環器呼吸器センター142人、埼玉医科大学病院131人、深谷赤十字病院87人、関東脳神経外科病院80人等であります。
星先生、大谷先生、いつも本当にありがとう御座います。
ちなみにヘリが搬送に関わった件数は111件ありますが実際に搬送された件数は82件です。この内、当院のヘリポートよりの搬送は6件でした。
この資料では、どのような疾患、あるいは、どの程度の緊急・重症度の患者さんが搬送されたかの詳細は分かりませんが、恐らく当地で対処不能である、心、脳、大血管が多くを占めていると思われます。
私は改めてこれらの数字を見て、本当にびっくりしたと同時に複雑な思いに囚われました。
私は45年間この地で医者をやってきて、思うのですが、等地域の医療は以前と比べて中央の医療が進化してきている分、相対的に退化していると言っても過言ではないと思うのです。その証拠を突き付けられた思いでありました。と同時に無力感に囚われました。
話を戻します。ただ、悲観的なことをいくら言っても仕方がありません。
私はこれらの現状を前向きに捉えたいと思っています。
昨年、埼玉県では脳卒中に対する収容病院が整備、通知されました。脳卒中ネットワークと言います。秩父消防の救命救急士も随時増員され、救命士の能力の向上とメディカルコントロールシステム下に、緊急医療行為も拡大しました。この結果、救急隊員によるトリアージ能力も向上し、現場より、管外専門病院への直接搬送も多くなっております。また、未だ十分とは言えませんが、ドクターヘリ搬送も増加傾向で、緊急疾患の搬送に極めて有効な手段となっています。当院のヘリポートよりの搬送も、私が当初期待していた件数には程遠いですが、これが決め手となって救命できた症例も多数あります。当院の血液の備蓄も大きな進歩と思っています。
これらのことは秩父市民にとって大変すばらしい地域医療の進化と言えます。
正直、地元の医者である自分にとって一抹の悔しさはありますが、患者さんにとって何が最良かを考えると、いち早く適切な施設へ運ぶことこそ重要であることは申すまでもありません。秩父に暮らしていたから、死んでしまったとあっては、医者として痛恨の極みであります。
そこで今時点で、私が思うことは、より広域で、よりきめの細かい医療連携システムの構築であります。医療圏とか、県境とか、そんなことに囚われない連携、既成概念に囚われない連携であります。例えば、疾患別の連携、夜間に重点を置いた連携、あるいは転送先の確保のため役割組織作ること、病床の確保、転送に付き添う医師の確保も必要でありましょう。対処不能な場合適切な受け入れ医療機関を見つけ、安全に迅速に搬送する作業はそう簡単ではありません。心筋梗塞、脳卒中のような疾患は早期の治療が必要であります。はっきり申し上げます。当院のような二次医療機関に運ぶより直接専門病院に運ぶことが患者の為になるのです。もっと言えば、重症で緊急度の高い脳、心、大血管疾患は、悔しいけれど昼間のヘリ搬送を除けば、秩父病院は役に立ちません。
私はせめて出来る事として、負け惜しみのような感覚でヘリポートを作りました。
ここで、ドクターヘリと病院併設のヘリポートについてご説明し、ご理解を賜りたいと思います。
ヘリ搬送そのものは何と言っても搬送時間の短縮が魅力であります。埼玉医科大学国際医療センターまで約8分で到着します。次に、ドクターヘリが私共にとってありがたいことは、医師の添乗が必要なケースでも、当院の医師が救急車に乗って行かなくて良いことであります。ただでさえ少ない医師が居なくなることは大変な負担であります。病院併設のヘリポートの利点は、救急車からヘリへの乗り換えや転院等で、患者を医師やスタッフ、機材の整った病院内で管理できる事であります。また的確な検査が可能であり、正確なトリアージが出来る事、一般のヘリポートとは医療上の機能が全く違うのです。
ご理解頂きたいと思います。
本日お越しいただいている石心会病院は先ごろ新築移転し、屋上ヘリポートを併設されました。当院と秩父地域にとって、頼もしい病院が身近になったと考えております。今後、ヘリ搬送やドクターカーによる搬送に大きな期待を寄せさせて頂いております。是非とも宜しくお願い申し上げます。
本題に戻ります、今回の医療連携会の具体的議題を提案させて頂きます。
当地域で対処不可能症例に対し、現状でどんな方策があるか、将来のビジョンはどうあるべきかについて、ご議論頂きたいと考えます。
国は救急医療体制として、1次、2次、3次救急医療システムを作っております。3次救急に当たる救命救急センターは100万人に1施設の割合で整備されています。埼玉県は700万人を超えましたので、7施設あるはずです。本来は二次救急で対処できない場合、その地域の3次救急病院が引き受けると言う机上の設計図であります。当地域は深谷赤十字病院がこれに当たりますが、この1次、2次、3次救急という段階的なシステムは機能しないことは明白であります。
。
私としては、脳疾患については一応の整備が整った今、せめて心疾患についても同様の体制、仮称「心筋梗塞、大血管疾患ネットワークシステム」が整うことを願っています。
また、現状のメディカルコントロールとは、1、救急救命士に対する指示及び救急隊員に対する指導助言体制の強化、2、救急活動の事後検証体制の構築、3、救急救命士の再教育等の充実、であります。
しかし、私は、その名の通り救急医療全般のメディカルコントロールをやって頂きたいと思います。つまり先に述べた、高次医療機関への患者搬送に関わるマネージメントをやって頂きたいと考えます。医療機関の選定、連絡、確保から搬送方法の指示、願わくば添乗医師、ドクターヘリ、ドクターカーの整備、確保までやるシステムの構築であります。ただ、何も全てを深谷日赤病院が担うべきと言っているのではありません。誰かが、音頭をとって、何処かが引き受けるべきと思っています。行政しかないと思いますが、現状では夢の様な話ではあります。夢は叶っても叶わなくても夢、希望・あるいはビジョンは必要と考えます。一方ではシステムと言うより、個々の病院間の強い絆も必要と感じています。お互いの顔の見える連携が必要であります。この連携会もそのためのものでもあります。
そんな訳で、今回の連携会は当院の紹介はビデオにとどめ、講演会等も準備しておりません。テーブル席もそれなりに工夫させて頂きました。是非ともテーブごとに、あるいはテーブルを超えて、お食事を召し上がり、アルコールも入りながら、忌憚のないご議論を交わした頂きたく思います。それぞれのお立場より、様々なご意見を交わして頂き、この連携会が将来へのビジョンに何らかの役に立つ事を願っております。各テーブルが議論の席と考えております。どうぞよろしくお願い申し上げます。
ところで、先日、私どもは二次救急輪番について、夜間・休日の一部を辞退したい旨、お伝えしました。
このことについて少し触れさせて頂きます。この意味は皆様に、特に公の方々に危機感を持って頂きたいと言う一念であります。私は以前より、35年来と言っても良いですが、様々な機会で地域の救急医療の現状を訴えてきたつもりです。一部辞退についても、急に言い出したのではありません。1年半前より言っていました。
あまりにも長く、変わらないことに焦れて、すねてみたのであります。今回の連携会に期待しているように、本音の議論をしてもらいたいと思ったからであります。専門以外の患者さんを含め、一人の医師に夜間の救急の全てを担ってもらっている事に、今や院長として、あるいは医師として、罪悪感さえ感じていること、は本音であります。当院が完全に夜間救急をやめれば、少しは意識が変わるのでは、とさえ考えた事もあります。しかしながら、議論がない事、進歩というより、始めない事、始まらない事に苛立ったからであります。
最後に一つだけ、私どもが開いた医療連携会ですので、少しアピール、宣伝をさせて頂きます。脳・循環器の急性疾患以外の疾患、こと消化器に対しては癌を含む慢性疾患・急性疾患は当院のもっとも得意とするところであります。手術は基より、内視鏡検査、ESDやERCP・EST、胆道・消化管ステント術等の手技、特に大腸ステント術は一昨日、埼玉県外科集談会で、研修医が症例を発表しました。来年の埼玉県外科医会では大野君が研究発表もする予定です。こと消化器に関しては、多くの治療が当院で十分に対処可能であります。当然外傷外科もほとんど対処できると思っています。
専門性という意味では、呼吸器外来を始め、医師会の先生方、埼玉医科大学の先生方の応援を得て、化学療法、膠原病、循環器、神経内科、糖尿病、乳腺、形成外科外来等を開設しています。
また病院歯科としての機能、有疾患患者さんの治療、小児、全身麻酔下の歯科治療も得意分野の一つであります。
手技の正確さ、迅速さ、手術適応の正確さ、チーム医療においては管外高次医療機関に負けないと自負しております。救急疾患に限らず、初診から診断、治療まで速さは大病院では出来ない事の一つと思っています。
あまりに悲観的な事を申し上げましたので、最後に自画自賛させて頂きました。基本的には、当院は得意分野で地域に貢献したいと思っております。当然、平日の昼間の救急患者の受け入れは、今まで通り救急告示病院の役割として続けて行く所存です。夜間2次救急輪番体制よりの一部辞退をお伝えしたのであります。この事を1年間延長しました。その間に救急医療に関する様々な難題が少しでも解決することを期待したいと思っています。
さらに最後に一つだけ、それでも地域完結が将来可能とすれば、それが市民にとって一番良い事でありましょう。情けない事をいっておいて、今更と思われるでしょうが、諦めたら終わりであります。また、資料の中で、疾患や重症度が確認されている転送搬送88人の事例に目を通しました。転送搬送とは救急車で我々地域の病院に搬送された後、専門あるいは高次医療機関への搬送が必要と判断され、そのまま管外に搬送される事ですが、当院を含め地域内で対処可能であったと思われた症例も散見されました。当然、管外搬送患者796名の総てが重傷者で、地域内で医学的に対処不可能であった訳ではなく、様々な理由で管外搬送となったのですが、私は地域内の連携により少しでも地域で対処できるようになり、管外搬送が減ることは、市民にとって良いことであり、これも適格な管外搬送と同様に、地域病院の使命であると思っています。
ありがとう御座いました。
以上、当地域医療の問題点を指摘し、ご議論を頂くことをお願い申し上げまして、開会の挨拶に返させて頂きます。宜しくお願い申し上げます。
10月14日(日曜日)、巴川オートキャンプ場で職員・家族、研修医・OBが集まり本場のバーベキューを味わいました。
幸い曇りがちではありましたが、時折☀もさし、子供達も存分に遊び、腹いっぱい食べました。リブステーキ、サーロインステーキ、若鳥の蒸し焼き、鹿肉ソーセージ、巨大サラダ、その他、数えきれない料理、最後に肉汁たっぷりハンバーガー。ともかく総て美味しかったです。森田さん、キャリーさん有難うございました。
また来春にやりたいと思います。さらに多くの参加を期待します。
10月初旬の連休に台風をやり過ごし、松崎クルーズに行ってきました。今回は母校の研修医でヨット部OBと当院スタッフを連れて、クルーザーの醍醐味を味わってもらいました。
風速20メーター位吹きましたが、苦労した後は凪です。
二次救急医療体制 その2
平成30年7月4日のこのブロブに当院の夜間二次救急医療体制について、「段階的に縮小して行く方針である」という今後の方針を書きました。
今回は改めてその経緯と趣旨・理由を書き留めて置きたいと思います。
1、平成29年4月1日 院長ブログ に救急医療に対する今後の当院の方針として、
来年度(平成30年度)より段階的に縮小させて頂きたい旨と公的病院の役割について書きました。
2、平成29年9月 9月の秩父市報に同様の内容を書きました。(これはブログに紹介済)
3、平成30年4月23日 医師会長、広域の長である秩父市長に、当初の予定を1年延期し、平成31年度より、『日曜昼間、日曜夜間の救急担当辞退』したい旨、文章で通知しました。
4、平成30年7月4日 院長ブログ 130周年記念誌の20年を振り返って:当院の基本方針の中で、当院の夜間・日曜の二次救急診療を段階的に縮小する趣旨と理由を書きました。
5、今回(平成30年10月)、熟慮の末、下記の文章を医師会長および秩父市長あてに通知しました
救急担当辞退内容の変更について
時下ますますご清祥の段、お慶び申し上げます。平素は格別のご高配を賜り、厚く御礼申し上げます。
さて、平成30年4月23日付で平成31年度の救急担当について、日曜昼間と日曜夜間の担当辞退をお願いしていた所ですが、諸事情を鑑み、平成31年度は現状通り行い、平成32年度の救急担当については日曜昼間と日曜夜間及び土曜夜間の担当を辞退したくここに通知させて頂きます。
私共が平成29年4月に救急担当の段階的縮小を表明してより、1年半が経過しました。平成32年度でまる3年となります。今後の1年半の間に、当地域の対処不能症例に対する対策と、より広域の医療連携システムの構築がなされる事を期待したいと考えます。ご理解の程、宜しくお願い致します。
医療法人花仁会 秩父病院院長 花輪
平成29年4月に私共が当院の夜間・日曜の二次救急診療の段階的縮小を表明してより1年半が経過しました。この間上記したように、機会をとらえて、「あくまで患者の立場に立ち、当地域のあるべき二次救急体制の見直し」について発信してきましたが、私が期待する前向きな対策は何一つ成されておりません。
今回の変更通知の意味は、平成32年度までの、さらに約1年半の間に、地域で困難な疾患・症例の二次から三次救急医療がより円滑に成されるような体制の構築を期待し、関係者全員の危機感と本気度・気概を喚起することが目的であります。全国標準の医療が為されない地域には、誰も住みたいとは思わないでありましょう。
もちろん私共も ①自院の機能の向上 ②さらに多くの高次医療機関と円滑な連携 ③画像転送や迅速な情報提供 ④救急担当医師の派遣依頼と人員交流 ⑤ヘリ搬送のさらなる有効利用等に努めて行きます。
早速、来る平成30年11月19日には、「秩父病院創立130周年記念医療連携会」を開催します。多くの高次医療機関の医療連携室の方々および医療福祉部会の市議会議員様にもご案内を差し上げております。この中で、当地域の救急医療の現状をご理解頂き、議論が深まることを期待しています。
現段階で、具体的に私の頭の中にあることは以下のものです。
1、まず現状を認識し、患者の立場に立って当地の救急医療を考えること。(当地には小児二次救急施設・脳梗塞対処病院がないこと、年間600件を優に超える管外搬送があること。産科施設・二次救急病院の減少、急激な医療の進化により高度医療が日常的に行われるようになり、相対的に対処不能症例が増加している事、それに伴い患者・家族の要望も変化していること、等々)
2、秩父市立病院の救急医療体制の充実(地域中核病院たる専門医療の整備。せめて脳梗塞に対するTPA治療が出来る体制の整備等、将来的目標、ビジョンを立てる)
3、当地域が医師不足地域かつ準医療過疎であることを踏まえ、より広域的救急医療体制の構築(すでに全県下で整備された脳梗塞にたいする収容病院群体制に加え、同様に急性心筋梗塞等にたいする体制整備)等に対し、当地域の行政、医師会その他医療関係者が積極的に関与し、県、国に対して要請すること。
4、その他、医師確保のための既成概念に囚われない実効性のある対策等、一歩踏み出すことを期待するものです。
その14
『さて、怒ってばかりいること、人に自分流を押し付けることは、年を取ったことの証拠である。「今の若い者は」と言う言葉は山本五十六長官も「禁句」と言っている。
彼はこうも言っている「苦しいこともあるだろう。言いたいこともあるだろう。不満なこともあるだろう。泣きたいこともあるだろう。これらをじっとこらえてゆくのが、男の修行である」
私はそろそろ耐用年数が切れかかっていることも、馬鹿さも若さもなくなりつつあることも自覚している。
振り返って、医者になってからここに至るまで、医師、病院の院長・理事長として私を支配して来た観念は『我慢』であった。㊸
孔子の言う「70歳の従心」は、私には到底無理である。こらえ性の無い私が、どうにかこの病院を維持して来たことが出来たのは、当然のことながら、周囲の支えがあったからである。
妻の支え、両親、子供達や孫という家族の存在があった。多くの人との触れ合い、友情、援助があった。平成30年7月現在、長女(福田千衣里)は秩父に孫(光志14歳)と住んでいる。次女夫婦(長谷川義朗・小百合)は私の自宅に隣接して家があり、二人の孫(さら5歳、慎之介1歳半)と暮らしている。長男(洋介)は実家に住み、この4月より歯科医師として秩父病院の勤務が始まった。3人の子供達と孫までもが、すぐ近くにいる。しかも、義理の息子を含む全員の子供達が秩父病院で医師、歯科医師として働いているのである。私にとってこれ以上の心の支えが他にあろうか。感謝しかない。
加えて、私の特技、「オンとオフの切り替え」がこれを可能にしたと思っている。この20年間、私が健康を保てたのは、犬達のお陰である。レオはレオンベルガーという犬種で、体重は85キロあった。一度座り込んだらテコでも動かなかった。6歳で前足に骨肉腫ができ、大手術と化学療法を行ったが、逝ってしまった。ジャックはゴールデンレドリバーとしては破格に大きく、その引っ張り方は強烈である。ポン太はフレンチブルで中型犬であるが、ダッシュ力は半端ではない。彼らたちとの毎日のミューズパークまでの散歩は私の足腰を保っている。本当にピュアーで可愛い奴らである。ジャックは新病院開院の年、生後3ヶ月で我が家にやって来た。従って、新病院と同じ年を重ねている。㉟
私は110記念誌に私はこう書いている。「25年間、私は常に走っていた。時には全力で、時にはフラフラと、時には立ち止まりたくなったり、リタイヤしたくなったが、振り返らずともかく走っていた。気持ちよく走ったこともあるが、どういう訳かゆったりと走った記憶がない・・・・どこまで走り続けることができるのか、正直言って私には自身がない。しかし、今までのような走り方でなく、もっとゆったりと踵を地につけて、大勢で励まし合いながら一歩ずつでも前に進むことができれば、どうにかこの小さな病院の歴史の中の自分の分担区間の次への中継点まではたどり着けそうな気がしている」と。今私は130周年記念誌の一ページをかきながら思う。「そうだよ、ゆったりとではなかったけれど、多くの人たちに支えられて、もう少しのところまで来たよ」「好きなことを好きなようにやって来ただけ」
孔子の言葉は、総てにおいて当てはまらなかったこれまでの私であるが、「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」正にそう思う。
しかし、幸か不幸か、欲深く未熟な私には、未だ自分の道が見えない』
私の文献索引
① 昭和58(1983)年3月25日発行 医師会誌第2号「夢遊病者」
② 昭和60(1985)年10月30日発行 医師会誌第6号 「小笠原航クルージング航海記」(昭和60年6月5日~6月31日)
③ 平成元(1989)年7月10日発行 外科医会15周年記念誌「南の島の落とし物」(昭和61年 ヤップ島クルージング)
④平成元(1989)年10月6日発行 医師会誌第13号「イワナの話」
⑤平成3(1991)年7月1日発行 医師会誌第15号「ある日の夢」
⑥平成5(1993)年6月15日発刊 医師会誌第18号「福島先生へ」「親善ソフトボール大会」
⑦平成5(1993)年12月13日発刊 医師会誌第19号「夜明け考」
⑧平成6(1994)年7月15日発行 秩父外科医会20周年記念誌「水槽小話」
⑨平成6(1994)年8月5日発行 医師会誌第20号、「イルカからのメッセージ」
⑩平成9年(1997)年11月3日発刊 「秩父病院・百十周年記念誌」
⑪ 平成10(1998)年3月8日発刊 医師会誌第25号「第6回医療関係団体親善ソフトボール大会」
⑫平成11年(1999)年10月1日発行 秩父外科医会25周年記念誌「98年『喜望峰Ⅱ』クルージング」
⑬ 平成13(2001)年10月1日発行 医師会誌第30号 「岩田充先生を偲んで」「三上哲先生を偲んで」
⑭平成14(2002)年9月1日発行 医師会誌第31号「喜望峰Ⅱ日本一周クルージング(その1)」
⑮平成15(2003)年6月1日発行 医師会誌第32号「喜望峰Ⅱ日本一周クルージング(その2)」
⑯平成16(2004)年3月1日発行 医師会誌第33号「喜望峰Ⅱ日本一周クルージング(その3)」
⑰平成16(2004)年12月24日発刊 医師会誌第34号「喜望峰Ⅱ日本一周クルージング(その4)」―北前船の旅―」
⑱平成17(2005)年12月20日発行 医師会誌第35号「喜望峰Ⅱ日本一周クルージング(その5)―北海道の旅―」
⑲平成18(2006)年12月20日発行 医師会誌第36号「喜望峰Ⅱ日本一周クルージング(その6)-平成17年 秋 クルージング・帰航―」
⑳平成19(2007)年11月18日発行 医師会誌第37号「喜望峰Ⅱ日本一周クルージング(その7)ー突然の終焉、海と船への思いー」
*平成10(1998)年5月3日西伊豆松崎出航~平成17(2005)年10月14日に福島県のいわきサンマリーナに到着するまでの7年間の航海と回想を医師会誌に計7回にわたり連載させて頂いた。
㉑平成20(2008)年5月30日 連載を一冊にまとめた航海記発刊 「『喜望Ⅱ』私の日本一周クルージング航海記」
㉒平成16年(2004)年7月1日発行 秩父外科医会30周年記念誌「秩父外科医会30周年によせて」
㉓平成16(2004)年12月24日発行、医師会誌34号「父・花輪吉夫と整形外科」
㉔平成16(2004)年 埼玉県医師会雑誌661号「当院における胃切除後器械吻合(縫合)
㉕平成17(2005)年 埼玉県医学会雑誌第40巻第1号「幽門側亜全摘術における自動吻合器による再建(器械 吻合)の工夫」(第22回埼玉県外科集団会発表)
㉖平成18(2006)年、埼玉県医学会雑誌第40巻第2号「重積をきたし肛門外に脱出したS上結腸癌の1例(第23回埼玉県外科集団会発表)
㉗平成18(2006)年3月発行 埼玉県外科医会誌第25号 談話室「『知床』世界自然遺産に思う」
㉘平成19(2007)年3月発行 埼玉県外科医会誌第26号 挨拶「自己紹介」
㉙平成19(2007)年9月 消化器外科第30巻10号 通巻第375号 症例報告 ヘルス出版「食道胃、食道空腸吻合におけるダブルステイプリングテクニック『金属ワイヤー法』の経験」
㉚平成20(2008)年10月30日発行 日本外科系連合会誌第33巻5号「食道浸潤噴門癌に対し、左開胸開腹下にdouble stapling technique(DST)-金属ワイヤー法―にて食道胃吻合を施行した1例」
㉛平成20(2008)年11月5日発行 医師会誌第38号・群像2008「還暦外科医の呟き」
㉜平成20(2008)年11月5日発行 医師会誌第38号別冊 巻頭あいさつ「看護専門学校創立10周年を迎えて」
㉝平成21(2009 )年2月20日 秩父地域医療についての提言(20年度秩父地域医療協議会)
㉞平成21(2009)年10月 埼玉大学医療連携会で講演 「防災ヘリによる早朝夜間ドクターヘリ的運航の現状」
㉟平成21(2009)年12月25日発行 医師会誌39号「あいつの思い出」「ドクターヘリについての私見」
㊱平成22(2010)年12月25日発行 医師会誌40号 会長「はじめに」「分水嶺」「肉が大好き(草食系・肉食系)」
㊲平成22(2010)年12月31日発行 秩父外科医会35周年記念誌「アラ還の意地と欲」
㊳平成23(2011)年3月発行 埼玉県外科医会誌第30号 論説「地方病院の医師不足と専門医制度に思うこと」
㊴平成23(2011)年6月 埼玉医科大学医療連携会で講演 「秩父地域の災害・救急医療」
㊵平成23(2011)年12月25日発行、医師会誌第41号 会長「はじめに」「3・11その時あなたは」
㊶平成24(2012)年12月 MediCon.医療の最前線『秩父の山々に囲まれた緑豊かな「結界」」
㊷平成25(2013)年7月 DOCTORAES 郡市区医師会の現場を見てみよう
㊸平成25(2013)年12月25日発刊、医師会誌43号「『もういいかい』と『まあだだよ』のはざまで」
㊹平成26(2014)年1月発行 埼玉県外科医会誌 第33号、論説「地域医療を支えるための当院の取り組み」 談話室「地方外科医のボヤキ・嘆き・呟き」
㊺平成26(2014)11月 日本の元気な病院&クリニック 開放病床とオープンシステムで地域全体の」「総合病院化」を図る
㊻平成26年(2014)年12月号 DOCTOR’Smagagin「総合医養成こそ地域病院の使命だ」
㊼平成27年(2015)年3月発刊 埼玉県外科医会誌第34号 学術講演会 「第
29回埼玉県外科医会学術講演会」 談話室「夢の空中散歩」
㊽平成27(2015)年9月5日発行 秩父外科医会40周年記念誌「私の5年誌・病院移転から今」「極端な専門医志向の弊害と対策」(第40回日本外科系連合学会学術集会発表内容)「第29回埼玉県外科学会 学術集会(平成26年3月8日・秩父)
㊾平成27(2015)年12月25日、医師会誌45号、「定期学術集会に参加して思ったこと(特にアッペ・ヘルニアの腹腔鏡下手術と今後の私のライフワークについて)
㊿平成29(2017)年4月28日受付、日本外科学会雑誌 第119巻 第1号:92‐94、201 第117回日本外科学会定期学術集会 特別企画(5)「今こそ地域医療を考えるー都市と地方の外科医療と外科教育の格差を解消するにはー」
5、研修医の視点に学ぶ格差解消への模索と地域医療の役割
51 平成29(2017)」年 インターネットサイトm3.com
Vol.1 夢見た地域完結の医療「今は無力感と脱力感」
Vol.2 「総合医の養成」は地域病院の使命
52 平成29年(2017)年 秩父市報 9月号
秩父の医療現場から 「救急医療の現状の課題と将来について」
私の意固地な考えと愚痴、自身への叱咤激励と多少の期待、「私の20年」は遺言のようなものになってしまい、文献(駄文)の集積は私の遺稿集の準備の様相となってしまった。
私はそれで良しと思っている。もう我慢はしたくないと思う今日この頃である
その13
『病院を建築中、ほとんど毎日、現場を見に行った。すると、ブーンという音に空を見上げると何かが飛んでいるのに気づくことが多くなった。モーターパラセールである。ゆったりと大空を漂っている。実に気持ちよさそうである。以前より気になってはいたが「誰が、どこから、どのように飛んでいるのであろうか」が無性に気になり始めていた。
誰しも子供の頃に空を飛んだ夢を見たであろう。私も幼少期にこんな夢をみた。それは必ず同じ夢で、秩父神社と自宅の間にある道を、両手を広げ全速力で駆けると、浮き上がるというものである。高さは1mか2mで、それ以上は上がらず飛ぶと言うほどではないので、もしかしたら本当に出来るのではないかと感じられ、この夢を見た時には必ず飛び起きてこれをやってみた。その度にいつも裏切られたが、もっと早く走れれば浮き上がるだろうと思って、あまりがっかりもしなかったように思う。「何時かは飛べるかも知れない」子供の夢はそんなもの、可能性に満ちている。
新病院の完成後、私は熊谷のモーターパラスクールに入門、訓練を開始した。平成23(2011)年10月4日初講習、10月16日には朝霧高原に行き、初めてパラセールを体験した。タンデムといって、二人乗りの前の座席に乗り、ベテランのパイロットが空へ連れて行ってくれるのである。私は高所恐怖症ではないが、決して高いところに強くはない。
平成23(2011)年11月、4回目の練習で、初めて空を飛んだ。久々の感激であった。その時の撮ってもらった写真、自分でもこんなに嬉しそうな顔を見たことがない。
その後、平成24年の元旦、新病院の上を始めて飛んだ。子供の時の夢が63歳になって叶ったのである。しかも自宅と新病院の上空を飛べたのであるから、これ以上の贅沢な満足はない。正に天にも昇る気持ちであった。㊼
平成24年、病棟の北側の隣接地の一部を借り、蕎麦の栽培を始めた。収穫して天日干し、そこから先は当院の看護師さんのお父さんでプロのお蕎麦屋(三千乃家)さんに打ってもらう、自家製蕎麦である。病棟の窓から患者さんが楽しめる様に赤い花の蕎麦を植えたのが最初である。大沢勝太郎さんから今は、田中英生、斎藤陽子さんに引き継がれているが、正に精魂込めた逸品である。
これを年末から春先にかけて、当院が日頃からお世話になっている方々にお配りしている。心からの御礼のつもりである。当たり前であるが、喜ばれなかったことはない。実際に世界一美味しい。汗も魂も入っているのであるから。
その12
『私なりに頑張ったことがある。
平成14(2002)年、当院は日本外科学会専門医制度関連施設に指定された。各学会の指導施設や関連施設になるには、それぞれ、独自の条件をクリアーしなければならないが、必須条件は専門医。指導医の在籍の有無である。この年、埼玉医大の外科の助教授まで務め、日本外科学会指導医の資格を持つ山崎達雄先生が副院長として当院に入職した。加えて私を含め二人の専門医がおり、当院が関連施設に指定されたのである。しかし、山崎先生の退職に伴い、この資格は取り消されてしまったのである。この資格は病院の格や質はもちろんであるが、特に医師の確保、若手医師の教育には是非とも欲しいものである。自分が指導医になるしかないと思った。それにはトップ名の論文が5編必要である。一念発起し、私は平成16(2004)年〜平成20年(2008)年、57歳から61歳の5年間に1年に1編ずつ、計5編の主に器械吻合に関する論文を書き、外科指導医を取得した。結果、失っていた学会関連施設に復帰できたのである。㊲これは大学に勤務する医者ならともかく、私のような小病院のアラ還外科医が簡単に出来るものではない。外科医としてのプライドと院長の意地、大げさに言うと病院の存続をも賭けた大仕事であったと思っている。㉔㉕㉖㉙㉚
昭和55年に本格的に秩父に帰って来て以来、平成2年に院長、平成10年に法人の理事長となったが、休むことなく働いた。手術は十分すぎるほどやった。何かに追われるように常に走っていた。110周年記念誌の作成(平成9年)もその一つである。病院建物の増改築は大きなものでも数回行なった。駐車場の整備拡張、院内施設の改装、いつも工事の音が聞こえていたような気がする。
平成10年以降も環境改善に邁進した。医者以外の私の仕事も日々膨張していった。医師会の仕事、秩父病院だよりの発刊、ホームページの開設・院長ブログ、病院機能評価、医療連携会、初期研修医の受け入れ、学会認定施設の取得、学会活動、論文、医師会誌・外科医会誌・医療系雑誌等への投稿、行政が開催する各種委員会での提言等々。その過程が、平成23年の病院移転に向かってのエネルギーを蓄えて行った様に思う。
ただ私も病院スタッフも、仕事一辺倒だった訳ではない。オンとオフの切り替えは私の特技、病院の伝統でもある。古く父の時代、私が幼少の頃より、海の家と称して、逗子・鵠沼・西伊豆等に連泊の病院旅行を行なっていた。小学校4年の時、父の引率で、看護婦さん達と富士山に登ったこともあった。私の代になってからも、様々なレクレエーションを企画した。病院旅行、ソフトボールやバレーボール大会、渓流釣り大会やバーベキュー、もちろんスキーやヨット旅行もやったし大勢で武甲山にも何度か登った。この20年を振り返っても同様の路線は続いているが、残念ながら、ゆったりとした時間の流れ、古き良き時代は回想の中にしかない。(職員旅行・皇居にて)
自分の個人的遊びは相変わらず続けている。喜望峰Ⅱによる、日本一周クルージングには、職員の何人かも参加した。しかし、正確に言うと『日本一周』は完璧ではない。なぜかと言うと。出発点の西伊豆松崎までは到達せず、茨城県のいわきサンマリーナで中断となったからである。船はここにいる間に買い手がつき、平成19年冬、日本海を韓国に渡っていった。その約4年後、大津波により、いわきサンマリーナは壊滅したのである。素敵なレストランもある、設備の整った綺麗なマリーナであった。係留されていた全ての船が消え去った。痛恨の念に堪えない。(いわきサンマリーナ)
平成20(2008)年、私は現在の喜望峰Ⅲを手に入れた。この船は平成20年3月に愛知県蒲郡のラグーナマリーナで進水し、その後瀬戸内海、大分などでクルージングを楽しみ、平成22年5月5日に沖縄の宜野湾マリーナに到着していた。平成23年の大津波の被害は全く受けずに済んだのである。
幸運と言う他はない。
今は、沖縄から帰って来て、平成26年5月より静岡県の富士山羽衣マリーナにいる。私の第三の故郷との言える松崎に頻回に釣りとクルージングに出かけている。最近では時々病院スタッフや研修医を連れて行っている。ちなみに、第二の故郷は新潟県湯沢である。私が5歳の頃よりスキーをはじめ、その後私のスキーを育ててくれたところである。第三の故郷へは20歳の頃より通っているので、もう50年になる。
その11
タイムリーを目論んだため、前後してしまったが、130周年記念誌の「私の20年」を最初から紹介したい。
『私の20年』
『私にとっては50歳から70歳、子曰く「吾、五十にして天命を知る 六十にして耳順い 七十にして心の欲する所に従いて矩 のり を踰えず」の時期である。
孔子の教えとは無関係に過ごした私の20年、仕事か遊びか、どちらを書こうか迷ったが、私らしく、ごちゃごちゃにして書き残しておくことにした。
平成10(1998)年5月、私はヨット「喜望峰Ⅱ」で西伊豆松崎より日本一周クルージングに出発した。仕事の合間を縫って、週末と連休、夏休み等に細切れの航海を続け、平成17(2005)年10月に福島県のいわきサンマリーナに到着するまで、7年半をかけた日本一周クルージングであった。㉑ 人から「良くそんな暇がありましたね」と聞かれることがあるが、振り返って、「自分でも良くやれたものだ」と思わないでもないが、決して仕事に手を抜いた訳でもない。仕事と遊びどちらも大好きであるが、一方だけでは長続きはしない。しばらく海にいると無性に仕事がしたくなり、しばらく仕事をしていると強烈に海に行きたくなる。オンとオフの切り替えはそれぞれを新鮮化し集中力とエネルギーを倍増する。こんな私の性分は一生変わらないと思っている。②③④⑨
私は50歳を過ぎた頃から、55歳、60歳、65歳で医者をやめる、と周囲に言ってきた。㉛ 今、古希を過ぎ、最近は東京オリンピックでやめると病院スタッフに公言している。「五十にして天命を知る」欠片もなかった。いずれにせよ、どちらか一方が全くなくなったら、生きていけないかも知れない気がしているが、論語の古希を迎えた人への教え「心の欲する所に従いて矩 のり を踰えず」の前半はともかく、後半を実践できるとは到底思えない。
この20年の医者としての仕事、外科医としての毎日の業務、外来、検査、手術は、多くの優秀なスタッフに恵まれ、さほどの苦労をしたことはない。以前の一時期、昭和55(1980 )年から平成3(1991)年の11年間、手術室の上の自宅に住み、外来、検査、手術をやり、毎日が当直であった頃と比べれば天国と地獄の差がある。当時は通常の宿直に加え、週2回の二次救急当番があった。自宅のドアーを開ければ人工呼吸器の音が聞こえた。起こされない日は無かった。① 今でもはっきりと覚えている悪夢のような出来事もあった。そうあれは、私が42歳、医者になって18年目(昭和の終わり頃)、もう出来ないものはないと自信過剰、怖いものはなかった。ちょうどその頃、常勤医師は父と私の二人だけとなってしまっていた。たて続けに、重症患者さんや手術後の患者さんをMRSA感染症で複数失ったのである。2週間ベットサイドでほとんど眠らずに治療に当たった。不整脈が出て、自分の命が削られて行くのが分かった。自分の身体を酷使することが患者さん達に報いる唯一のことと思った。天狗の鼻はへし折られ、精も魂も尽きた。医者をやめようと思った。そして親父もこう言った「峰夫、もうやめよう」。ただただ情けなく、悔しかった。それから、『何歳になったら医者をやめよう』が口癖になった。「四十にして不惑」ならぬ迷走であった。あの光景は未だに夢に出てきて魘されることがある。一生背負って行かねばならないと思っている。⑤
しかし、古希を過ぎた現在、多少は気力、体力、胆力、最近は視力が落ちてきたが、今でも自分の手術がない日は憂鬱である。ラパコレは好きであるし、腹腔鏡下手術にも興味がある。いくつかの新しい手術も開発した。鼠径、腹壁瘢痕ヘルニアに対する新しい術式や食道吻合におけるDST等である。根っからの手術大好き人間であることに変わりはない。院長室の書棚に昭和35年からの手術記録簿がある。昭和47年までのものは大半を父が執刀、その後30年位のものは私が執刀か、指導したものである。今までに、万の単位の手術を行ったと思う。私の財産である。
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