花輪理事長の独り言
その11
タイムリーを目論んだため、前後してしまったが、130周年記念誌の「私の20年」を最初から紹介したい。
『私の20年』
『私にとっては50歳から70歳、子曰く「吾、五十にして天命を知る 六十にして耳順い 七十にして心の欲する所に従いて矩 のり を踰えず」の時期である。
孔子の教えとは無関係に過ごした私の20年、仕事か遊びか、どちらを書こうか迷ったが、私らしく、ごちゃごちゃにして書き残しておくことにした。
平成10(1998)年5月、私はヨット「喜望峰Ⅱ」で西伊豆松崎より日本一周クルージングに出発した。仕事の合間を縫って、週末と連休、夏休み等に細切れの航海を続け、平成17(2005)年10月に福島県のいわきサンマリーナに到着するまで、7年半をかけた日本一周クルージングであった。㉑ 人から「良くそんな暇がありましたね」と聞かれることがあるが、振り返って、「自分でも良くやれたものだ」と思わないでもないが、決して仕事に手を抜いた訳でもない。仕事と遊びどちらも大好きであるが、一方だけでは長続きはしない。しばらく海にいると無性に仕事がしたくなり、しばらく仕事をしていると強烈に海に行きたくなる。オンとオフの切り替えはそれぞれを新鮮化し集中力とエネルギーを倍増する。こんな私の性分は一生変わらないと思っている。②③④⑨
私は50歳を過ぎた頃から、55歳、60歳、65歳で医者をやめる、と周囲に言ってきた。㉛ 今、古希を過ぎ、最近は東京オリンピックでやめると病院スタッフに公言している。「五十にして天命を知る」欠片もなかった。いずれにせよ、どちらか一方が全くなくなったら、生きていけないかも知れない気がしているが、論語の古希を迎えた人への教え「心の欲する所に従いて矩 のり を踰えず」の前半はともかく、後半を実践できるとは到底思えない。
この20年の医者としての仕事、外科医としての毎日の業務、外来、検査、手術は、多くの優秀なスタッフに恵まれ、さほどの苦労をしたことはない。以前の一時期、昭和55(1980 )年から平成3(1991)年の11年間、手術室の上の自宅に住み、外来、検査、手術をやり、毎日が当直であった頃と比べれば天国と地獄の差がある。当時は通常の宿直に加え、週2回の二次救急当番があった。自宅のドアーを開ければ人工呼吸器の音が聞こえた。起こされない日は無かった。① 今でもはっきりと覚えている悪夢のような出来事もあった。そうあれは、私が42歳、医者になって18年目(昭和の終わり頃)、もう出来ないものはないと自信過剰、怖いものはなかった。ちょうどその頃、常勤医師は父と私の二人だけとなってしまっていた。たて続けに、重症患者さんや手術後の患者さんをMRSA感染症で複数失ったのである。2週間ベットサイドでほとんど眠らずに治療に当たった。不整脈が出て、自分の命が削られて行くのが分かった。自分の身体を酷使することが患者さん達に報いる唯一のことと思った。天狗の鼻はへし折られ、精も魂も尽きた。医者をやめようと思った。そして親父もこう言った「峰夫、もうやめよう」。ただただ情けなく、悔しかった。それから、『何歳になったら医者をやめよう』が口癖になった。「四十にして不惑」ならぬ迷走であった。あの光景は未だに夢に出てきて魘されることがある。一生背負って行かねばならないと思っている。⑤
しかし、古希を過ぎた現在、多少は気力、体力、胆力、最近は視力が落ちてきたが、今でも自分の手術がない日は憂鬱である。ラパコレは好きであるし、腹腔鏡下手術にも興味がある。いくつかの新しい手術も開発した。鼠径、腹壁瘢痕ヘルニアに対する新しい術式や食道吻合におけるDST等である。根っからの手術大好き人間であることに変わりはない。院長室の書棚に昭和35年からの手術記録簿がある。昭和47年までのものは大半を父が執刀、その後30年位のものは私が執刀か、指導したものである。今までに、万の単位の手術を行ったと思う。私の財産である。
その10
『松陰は国を憂い、欧米列強による侵略、日本の消滅を危惧し、国を担う人材育成に渾身の意欲を込めて、松下村塾を創った。スケールや次元は違うが、私は昨今の極端な専門医教育の結果生まれた弊害と医師としての在り方や気概の欠如、萎縮する心を憂いている。
花仁塾の入塾資格は「志(こころざし)を持つ人」である。
私のような未熟者が、偉そうなことは言えないのであるが、幾つか『今の若い人』に歯がゆさを感じることがある。
サミュエルウルマンの「青春」という詩がある。マッカーサー始め、多くの政治、経済界のリーダー達が座右の銘とした詩で、私も大好きである。「青春とは人生のある時期をいうのではなく心の持ち方を言う。逞しき意志、豊かな想像力、燃ゆる情熱・・・安易を振り捨てる冒険心をさす。歳を重ねるだけで人は老いない。理想を失うとき初めて老いる。六十であろうと十六であろうと人の胸には驚異に魅かれる心、幼児のような未知への探求心・・・を持つことができる」で始まる。言ってみれば高齢者を励ます詩である。が、しかしである、私は『今の若い人』にこれらの若さの条件をあまり感じることがない。松陰は「諸君、狂いたまえ」と言った。私は「若さは馬鹿さ、馬鹿さは若さ」と思うのである。また、人のことは言えないが、視野の狭さ、労を惜しむ風潮も気になることの一つである。こういう自分の考えを少しでも伝えたいと思うのは私の思い上がりであろうか。「地域でしか良い医者は生まれない」は言い過ぎかもしれないが、若手医師の教育を、私の最後のライフワークにしようと思っている。
平成29(2017)年4月 第117回日本外科学会定期学術集会 特別企画(5)「今こそ地域医療を考えるー都市と地方の外科医療と外科教育の格差を解消
するにはー」のセクションで『研修医の視点に学ぶ格差解消への模索と地域医
療の役割』と言う演題でお話しした。当院で地域医療を学んだ初期研修医達が
研修後、都市(大学病院)と地方(地域病院)の違いをどのように感じたか?
を取り上げた。そこから格差というより、若手医師の教育には、都市と地域の
お互いが補填し合うこと、それぞれを循環すること、早い時期から地域医療を
知ることが重要と指摘した。当院の指導方針と研修医たちが感じた事柄は別に記しておく。大学等の指導陣へも多少のインパクトはあったと思っている』
今回はこれくらいで良かろうかい チェストー!!!
その9
『研修医との付き合いの中で考え続けた。そして、一応の結論を得た。私の医師としての最終章の仕事を見つけた気がしている。それは残さなければならないものを、次代に伝えることである。
そんな訳で、平成27年10月1日、私は吉田松陰にかぶれ、松下村塾ならぬ、「花仁塾」を作った。
同年11月、埼玉医科大学主催の厚生労働省の臨床研修医指導者講習会に参加した。現在の若手医師教育の実際を自分の目で見てみたいと思った。部外者・高齢者は私一人であった。これほど疲れた講習会は初めてであった。WS(ワークショップ)GIO、OSCE、SEA、TF等の限りない英字略語を理解するだけで疲れた。そして私の教育にはこれしかないと思った。
「やって見せ、見せてやらせて、させて見て、ほめてやらねば人は動かじ」「話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず」「やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず」連合艦隊司令長官 山本五十六の言葉である。
『時代は変わったとか、古いとか、文句のある奴は勝手にほざけ。私は、医療は70%は進化し30%は変わらないか、むしろ退化した』と思っている。
ここ数年の私の医者としてのエネルギーはここにある。強烈な違和感と腹立たしさが「花仁塾」の根源である。㊾
さて、この30%の「まとめ」を書き留めて置きたい。
『今の若手医師教育に物申したい。極端な専門志向、縦割り、先進のみを追いかけ基本教育の欠如、臓器を見て全身を診ず、病気を見ても人を診ず、なんでも鏡視下手術、開腹も手縫いも糸結びも出来ない外科医、挿管も蘇生術も出来ない医者、訴訟が怖いから専門外は見ない方が良いと教育する指導医。医療の本質の喪失』と思うのである。『少なくとも一人の医師の守備範囲は極めて縮小、基本的考え方・手技は極端に退化し、結果、非効率で不必要な時間と労力、材料が必要となり、医療費は高騰を続けて行く』細かい様だがこれも指摘しなければ気持ちが晴れない。清潔と不潔の意識の欠如である。何もしないのにまず滅菌していないゴム手袋、その不潔ゴム手袋でカストに手を突っ込んだのを見たとき、腹部の診察でゴム手袋をして触診をしたのを見た時は唖然とした。なるほど自己の感染防止には必要であろうが、認識違いも甚だしい。創処置に際し、セッシやペアンで清潔ガーゼを掴む事は、今は無いらしい。何でも不潔ゴム手袋でワシ掴みである。視点は違うが、資源の無駄などには全く興味が無いのであろうか。どんな教えを受けているのか、腹立たしくさえある。自然とこれらの道具の扱いも上達しない。
EBMという決まり文句の影で、忘れさられて消えて行く残すべきものは少なくない』㊹50
㊹平成26(2014)年1月発行 埼玉県外科医会誌 第33号、論説「地域医療を支えるための当院の取り組み」 談話室「地方外科医のボヤキ・嘆き・呟き」
㊿平成29(2017)年4月28日受付、日本外科学会雑誌 第119巻 第1号:92‐94、201 第117回日本外科学会定期学術集会 特別企画(5)「今こそ地域医療を考えるー都市と地方の外科医療と外科教育の格差を解消するにはー」
5、研修医の視点に学ぶ格差解消への模索と地域医療の役割
今回はこれくらいで良かろうかい チェストー!!!
今回からは同じく130周年記念誌の中の「私の20年」の中から、当院で初期研修への思いと若手医師の教育に対して私の思うところを紹介する。
その8
『平成16(2004)年、臨床研修制度が発足し、平成17年度より最初の初期研修医が来てから、すでに13年になる。若い奴との付き合いは結構面白い。もうすでに140名を超える研修医と付き合っている。彼らから学んだものが多くある。学んだと言うより驚嘆させられたと言った方が良いかも知れない。「アッペて開腹するんですね。こんなにすぐ終わるんですか。ルンバールで手術が出来るんですね」彼らの驚きは私の学びでもあった。これは時代が変わったではすまされないと思った。「今の医師教育はどうなっているんだ」と正直腹が立った。
ここ数年私は怒ってばかりいる。㊻
私は自分を学研肌とは思っていないし、まずそれは無理であるが、探究心と冒険心は持っているつもりである。以前より多少の学会発表や駄文を投稿してはいたが、近年は学会に参加することがやや多くなった。「私は古いのであろうか」を確かめるために、他を見てみたくなって、学会や講習会に参加した。
平成27年4月、第115回日本外科学会定期学術集会のディベートセクション・アッペ、ヘルニアの『腹腔鏡vs開腹』の会場で、我慢できずに手を上げた。それぞれを「良し」と主張する二人の演者の対決方式である。納得できたこと、嚙み合わないこと、呆れたことが交錯したが、実感は「若い異次元の医師集団がなんだか勝手に騒いでいる」感じであった。急性虫垂炎の手術時期について、腹腔鏡支持派は膿瘍形成のような虫垂炎の場合、まず抗菌剤治療を行い、炎症が落ち着いてより腹腔鏡下手術を行うという。これをインターバルアッペンデクトミーと言うのでそうだ。ディスカッションは若手医師の教育におよび、双方とも視野の優位性を主張していた。最後に司会者より「フロアーからの発言はありますか」「フロアーには看護婦さんと二人でアッペをやっていた時代の先生方もおられると思いますが」との誘いに堪えられなくなった。以下の発言をした。「先ほどより興味深く拝聴させて頂きましたが、ディベートですので申し上げます。手術とはその字の通り、手で行うものです。診断においても、手の感覚、触診は重要です。手は精密なセンサーであります。また、指はメスであり、鉗子であり、手の平は鈎ともなる。私は組織に手、指先で触れてこそ手術が出来ると思っています。視覚のみならず、触覚も重要です。是非とも特に若手医師の教育にはお忘れなき様お願いします」
何を馬鹿なことを言っているんだと思って聞いていたので、結構気合は入っていた。会場は一瞬シーンとしてしまった。㊾
同年6月、第40 回日本外科系連合学会学術集会のシンポジウム・外科医を取り巻く社会的問題のセクションでシンポジストとして「極端な専門医志向の弊害と対策 地域病院の役割」というお話した。内容は最近の大学病院等の若手医師教育と風潮への批判と教育における地域病院の役割を指摘したものである』㊽
㊻平成26年(2014)年12月号 DOCTOR’Smagagin「総合医養成こそ地域病院の使命だ」
㊾平成27(2015)年12月25日、医師会誌45号、「定期学術集会に参加して思ったこと(特にアッペ・ヘルニアの腹腔鏡下手術と今後の私のライフワーク
㊽平成27(2015)年9月5日発行 秩父外科医会40周年記念誌「私の5年誌・病院移転から今」「極端な専門医志向の弊害と対策」(第40回日本外科系連合学会学術集会発表内容)「第29回埼玉県外科学会 学術集会(平成26年3月8日・秩父)
今回はこれくらいで良かろうかい チェストー!!!
その7
『その3日後である。
平成23(2011)年3月11日 東日本大震災が起きた。
その時、私は新しい院長室にいた。そしてこう思った「なんだ、3日天下だったか」思わず、引きつった不謹慎な笑いが出た。
移転した地は荒川の河川敷に盛り土した土地であった。病院ごと崩れると思ったのである
停電、電子機器全てストップ、自家発電機作動、しかし、大きな問題は起きなかった。患者さん達を病棟の南側に移し、帰途についたのは午前3時、公園橋から見た真っ暗な街は幻想的であった。
病院移転に関わった全ての人たちが好意的であった。同級生はもちろん、栗原稔前市長、久喜邦康現市長はじめ、市、県、国の行政の方々、地権者の方々や地元の方々に多大なご支援を頂いた。特に、山根、内田、平野氏ら高校の友人の力がなかったら移転は出来なかったに違いない。奥村組と田口設計、地元業者の方々は採算を度外視し、私の期待以上の素晴らしい病院を作ってくれた。
ヘリポート併設の病院らしくない急性期病院、木造平屋病棟、患者・職員とも和む環境、そして人が集まる病院である。
株式会社ベルクの故原島功氏からはヘリポート建設に対し多大なご寄付を賜った。秩父臨床医学研究所長の栗原俊雄氏にも、さらに秩父正峰会理事長の吉田廣文氏や山根益男氏には記念樹を頂いた。改めて心より感謝申し上げる次第である。
旧病院は秩父神社のご加護のもと、その隣、宮側町の地で120年以上続いて来たのであるが、移転に際し、薗田稔宮司様よりお許しを頂き、敷地内、ヘリポートに隣接して御社「秩父妙見社」に鎮座頂いた。本当に有難いことである。また、秩父神社の「北辰の梟」にちなみ、ご神木の銀杏の木で作った梟と少女像を待合室の梁に据えた。病院と患者さん達に変わらぬご加護があらんことを祈りたい。
当院は補助金と言う国民の税金と多くの方々のご好意とご苦労を頂いたことに一点も恥じることはない仕事を続けて来たと自負している。そして、今後も堂々とそれに恥じない貢献をして行きたいと、創立130周年を迎えた今、改めて肝に命じたいと思う』
今回はこれくらいで良かろうかい チェストー!!!
その5
『休校になった東高校、秩父セメント社宅周辺、現在移転した影森の浦山ダム埋め立て地が候補に挙がった。その後、秩父太平洋セメント第Ⅰ工場跡地や第2工場周辺も浮上した。
埼玉県では、平成19(2007)年10月よりドクターヘリの運用が開始され、
平成21(2009)年7月より防災ヘリのドクターヘリ的運用も開始し、365日24時間ドクターヘリによる患者搬送体制が整えられた。平成21(2009)年2月の労災事故では、私と岡部先生、当院のスタッフが真っ先に救出に当たったが、その後のヘリ搬送が功を奏した。㉞㉟
私はこのシステムの整備には当初より関わり、県知事や埼玉医大丸木理事長への要請等に腐心した。しかし、平成22(2010)年7月、埼玉県防災ヘリが山岳遭難者を救助中に墜落、5人が亡くなった。以後、防災ヘリのドクターヘリ的運用は低迷のやむなきに至るのである。㊴
平成19(2007)年当時、私は病院移転を考え出した時から、病院併設のヘリポートを作ろうと真剣に考えていた。それには広い土地が必要である。もっとも気に入ったのが、現在の影森の土地であった。120年以上続いて来た旧病院は秩父市のど真ん中、秩父神社のすぐ隣で駅にも近い。一方は郊外の河川敷の埋め立て地。土地の価値としてもアクセスも雲泥の差である。それでもヘリポートが欲しかったのである。屋上ヘリポートも考えたが、ヘリポートを併設可能な広く安全な土地と言う意味から、秩父太平洋セメント第1工場跡地と現在の土地に絞られて行った。平成20(2008)年に入っても並行して土地確保作業を続けた。ところが次から次へと様々な難題に直面した。工場跡地は様々な理由、(土地改良・会社の意向)等により消え、第1候補の影森の土地は広大で2万坪以上あるが、多数の地権者がおり、いずれ大手スーパー企業が進出するとのことで、多くの地権者が手付金を受け取っており、スムースには行かない。また、当時、行政は地元商店を守る意味から大店舗の進出を嫌い、インフラ整備には消極的で、地権者との折り合いも芳しくなかった。2万坪の土地のどこを借り受けるかも問題であった。
その頃、私は自院の移転と同時に、自分の頭の中で、この地に100床を超える規模のリハビリ施設等を誘致し、「医療福祉の里」ができないものかと真剣に夢見ていた。秩父地域にはこの分野も足りないのである。何度か複数の山梨の大規模リハビリ病院を見学に行った。埼玉医大第1外科教授の尾本良三先生を通じ、丸木清浩理事長にも何度かお願いした。前市長の栗原稔氏にも私の構想をお伝えし、ご協力をお願いした。私は秩父地域にとっても、埼玉医科大学の今後にとってもこの構想は大変有益と考えていた。しかし残念ながら、これは実現されなかった。
頭を切り替え、自身の病院移転に集中した。
ちょうどその頃、正にタイムリーと言う他ないが、平成21(2009)年度に総務省の定住自立圏構想が開始され、秩父市がその中心市に指定されたのである。
この結果、補正予算として、定住自立圏等民間投資促進交付金が予算化され、幸運にも当院の病院新設移転計画に交付金が支給されるかも知れないという状況が生まれたのである。この交付金は「あと一歩」で実現が期待される民間の取り組みを支援し、圏域全体の暮らしに必要な都市機能等を確保するため、国から交付を受けた都道府県が民間投資に係る初期費用の助成を行うというもので、対象事業は医療・福祉の充実、地域公共交通の充実等4分野であった。
交付金は総事業費の40〜50%と知らされた。千載一遇のチャンスであった。
ここで定住自立圏構想について触れておく。『地方から東京など大都市圏大都への人口流出を抑制するため総務省が推進する施策で、人口5万人程度以上で昼間人口が多い(昼夜間人口比率が1以上)都市が「中心市」となり、生活・経済面で関わりの深い「周辺市町村」と協定を締結し、定住自立圏を形成。中心市が策定する定住自立圏共生ビジョンに沿って、地域全体で、医療・福祉・教育など生活機能の強化、交通・ICTインフラの整備や地域内外の住民の交流、人材育成など人口定住に必要な生活機能の確保に取り組む』というものである。
秩父市が「中心市」に指定されたきっかけは、山根氏の関係で、当時自治大学校校長の椎川忍氏を秩父に招いて、地域活性化等についてのご講演を頂いたのが最初と聞いている。その後何度か秩父に来ていただいて、ご講演をいただいたようである。私も移転に際して、ヘリポートの併設、ドクターヘリの実際等について、椎川氏と東京消防庁の専門官の方にアドバイスを頂いた事もあった。そんな経緯の中で、秩父市は中心市に立候補、めでたく「中心市」に指定されたのである。平成21年3月からは総務省より、高橋範充氏が秩父市に派遣された。平成21(2009)年4月の秩父市市長選挙において、久喜邦康市長が誕生した。
私は、久喜新市長に定住自立圏構想に付いて、私の知る限りの知識を話し、また移転構想についても協力をお願いした』
㉞平成21(2009)年10月 埼玉大学医療連携会で講演 「防災ヘリによる早朝夜間ドクターヘリ的運航の現状」
㉟平成21(2009)年12月25日発行 医師会誌39号「あいつの思い出」「ドクターヘリについての私見」
㊴平成23(2011)年6月 埼玉医科大学医療連携会で講演 「秩父地域の災害・救急医療」
今回はこれくらいで良かろうかい チェストー!!!
今回以降は、同じく130周年記念誌「私の20年」の中から、当院の移転についての経緯等を紹介したい。
その4
『平成19(2007)年に入り、私は病院の移転を真剣に考え始めた。この頃から平成23(2011)年3月・新病院開院後までの約4年間は私の人生の中で、最も忙しく、充実していた時期であった。病院の移転は当院にとっても私にとっても、病院史上最大の出来事であり、絶対に記録を残して置かなければならない。
秩父病院は創立110周年後、14年のエネルギーの蓄積と移転準備期間を経て、秩父の医療が抱える様々な問題に対するジレンマとはちきれそうな期待を胸に秘めて、平成23年3月に現在の地に移転した。自分でやるしかないと思った。この時期私は還暦を過ぎてはいたが、最も地域医療に対する気概に満ちていた時期であったと思っている。この頃の様々な出来事・私と病院の置かれた状況、自身の心情と行動、病院移転の経緯、そして3月5日に行った開院式、8日の仕事始め、その3日後(平成23年3月11日)に起こった東日本大震災について書き留めて置きたい。
平成19(2007)年8月、私は先輩と友人からの急な誘いで、カナダのアラスカとの国境にあるランガラ島にサーモン釣りに誘われた。これは今までの人生最高の釣りであった。30ポンドを超えるキングサーモンが何匹も釣れた。これらを総て冷凍にして、日本に持ち帰り、大勢の人に差し上げる事が出来たのである。
平成19(2007)年9月1日 サーモン試食会を兼ねて、第1回病院移転計画会議を市内の割烹料理屋で行った。ありがたいことに、この年の春頃より私の熊谷高校の友人達が「花輪の夢を叶える会」を作ってくれており、すでに移転候補地を模索中であった。主要メンバーは、山根益男・共和電機社長、平野和夫・元当院薬局長、内田武男・株式会社奥村組営業部長、浜田一彦・浜田設計社長であり、相談役的な存在として、江利川毅・当時人事院総裁、依田英男・りそな総合研究所副社長、総て熊谷高校の同窓生であった。加えて当院の前事務長・清川芳明氏が最前線の交渉人として働いてくれた。
移転を思い立ったことには幾つかの理由があった。当然、旧病院の老朽化と駐車場が狭くなったこともその一つであった。しかし、正直言って私は還暦であり、常にいつ医者をやめようかと考えていたことも事実である。潮時とも思えた。私は救急医療の大変さ、病院を続けることの困難さは嫌と言うほど知っている。悩んだ末、病院を続ける決心をした。120年以上続いてきた病院を私が終息することは意地でも出来ないという思いもあった。私のバカな性格である。どうせやるなら、少しでも地域に役に立つ病院にしたいと思った。救急医療の現状を見れば、相変わらず、脳卒中や心筋梗塞等は当地域で対処できない。秩父に住んでいたから不幸な結果になることは、医療者として痛恨の極みである。ならばヘリポートを備えよう、当地で対処できない患者さんは少しでも早く高次医療機関に運ばなければならない。そして少しでも医療の進歩に遅れないよう、優秀なスタッフが集まって来る病院にしようと考えた。とは言え、彼らの励ましがなかったら、敢えて困難な道に夢を追いかけることはしなかったと思う。改めて彼らに感謝したい。』
今回はこれくらいで良かろうかい チェストー!!!
その3
『平成23年9月26日に定住自立圏構想の一環として「ちちぶ医療協議会」が発足した。これは「地域医療を地域の基幹インフラと据え、医療に対する需給ギャップの解消を目指した事業を実施し、秩父定住自立圏の制度を活用して、地域医療の維持・向上を図ることを目的とする」と言うものである。当時私は、定住自立圏構想には少なからず関わってきており『これは正に官民一体となり関係者が総力を挙げて地域医療の難題に取り組む体制が作られた』と大喜びしている。加えて、『このちちぶ医療協議会が単なる机上の空論や既成概念に囚われた形式だけのシステム、補助金消費のための旗振り事業に終わらない』ことを期待すると書いている。『何をか言わんや』が今の心境である。
夜間二次救急輪番体制が7病院から3病院になってしまったことを懸念し、私は「自治体病院の勤務医の先生方にも、民間病院の救急医療等をご援助頂きたい」と訴えて、今こそ管民の別なく『地域全体で地域医療を守る』ことを提唱している。今にして思えば、実現すべくもないが。
ただ現在も続いている、医師会の先生方の救急へのご援助は誠にありがたく、感謝に堪えない。
救急医療に関連して、埼玉県赤十字血液センターにお願いし、当地(当院)に血液備蓄ができる様になったことは当地域の医療にとって非常に有益で画期的なことと思っている。血液センターには結構強引にかけあった。地域の特性を十分理解してもらった結果である。念願が叶い、これで産後の大出血等に対し、より迅速な緊急輸血が可能となった。
私は医師会長を一期2年でやめたが、その理由は決して、疲れたとか、オーバーワークとか、医師会に嫌気がさしたとかではない。この時期は病院の移転と重なっており極めて多忙ではあったが、最も気力が充実していた時期であった。様々な思いを凝縮した結果である。ただ、僅か2年の医師会長の仕事であったが、看護学校の校長職も含めて私にできることは総てやったと思っている。この内、何が有効で、何が意味を為さなかったか、未だに自分にも正確な判断できていないが、いくつかの良い仕事もやった。ともかくその時点ではやり切った感はあった。今にして思えば中途半端ではあったと思うものも多くあるが、思う様には行かないものである』
今回はこれくらいで良かろうかい チェストー!!!
その2
『平成22年と23年発行の秩父郡市医師会誌の巻頭言、医師会長が書く「はじめに」を振り返って見る。㊱㊵
私は医師会の役割として「医療人の集団として、地域社会における医療分野で組織的に貢献すること」加えて「地域で医師(医療)を育て、医師を確保し、地域全体で地域医療を守ること」を提言している。救急医療に対しての市民の理解と啓蒙、行政との綿密な連携、日本医師会、県医師会への積極的提言、より広域的視野から見た秩父地域医療体制の必要性、医師会員による二次救急病院の援助、定住自立圏構想に基づく、救急医療体制への補助制度等について書いている。
次の年は、当然一番に東日本大震災のこと、医師会で義援金を募り、総額500万円を被災3県の医師会に送ったこと、友人の秩父がルーツの大手スーパー「ベルク」の社長・原島功氏に頼んで、岩手県立大槌病院に自社のトラックで直接食材を送ってもらったことなどを書いている。大槌病院の岩田千尋院長は秩父出身で、医師会の副会長であられた、故岩田充先生の弟君、岩田産婦人科医院の院長、城谷誉子先生の叔父君である。平成23年5月4日、私はイチローズモルツを1本持って大槌町を訪ね、岩田千尋先生にお会いし、被災地の惨状を目の当たりにした。先生がすでに仮診療所を開設され頑張っておられた姿が目に浮かぶ。
私は以前より「秩父地域保健医療協議会」において「秩父地域医療についての提言」と題し、勤務医不足に対する対策、中核病院たる秩父市立病院の在り方、救急医療の危機等の問題を指摘し、その解決法を提言してきたとも書いている。今回、改めて平成20年度の提言書を読み返してみて、唖然とした、私の頭と地域医療の現状は当時と変わらず、一歩も進歩していないと再確認できた。㉝ 振り返れば、平成16年(2004)年7月1日発行 秩父外科医会30周年記念誌に「秩父外科医会30周年によせて」の中に同じことを書いていた。それは、昭和58(1983)年3月25日発行 医師会誌第2号に寄稿した「夢遊病者」と題した文章にも全く同じ考えを書いていて呆れてしまったと書いているのである。このことは私が懸念する秩父地域医療の問題点と私の考えが、この35年間全く変わらない、進歩がないことを示している。いやむしろ後退していると言うべきであろう。
一民間病院の院長が行政や医師会に地域医療の危機を訴え、行政等にその解決
策を何度提言しても、「暖簾に腕押し」なのである。一次は無力感と脱力感し
かなかったが、まだどうにかしたいという思いが少しは残っている。』①㉒
51、52
㊱平成22(2010)年12月25日発行 医師会誌40号 会長「はじめに」「分水嶺」「肉が大好き(草食系・肉食系)」
㊵平成23(2011)年12月25日発行、医師会誌第41号 会長「はじめに」「3・11その時あなたは」
㉝平成21(2009 )年2月20日 秩父地域医療についての提言(20年度秩父地域医療協議会)
① 昭和58(1983)年3月25日発行 医師会誌第2号「夢遊病者」
㉒平成16年(2004)年7月1日発行 秩父外科医会30周年記念誌「秩父外科医会30周年によせて」
51 平成29(2017)」年 インターネットサイトm3.com
Vol.1 夢見た地域完結の医療「今は無力感と脱力感」
Vol.2 「総合医の養成」は地域病院の使命
52 平成29年(2017)年 秩父市報 9月号
秩父の医療現場から 「救急医療の現状の課題と将来について」
今回はこれくらいで良かろうかい チェストー!!!
当院の130周年記念誌、『私の20年』の中から、私が医師会長を務めていたころの事柄を何回かに分けて紹介したい。
その1
『医師会の仕事については、昭和59年(1984年)4月、36歳の時から理事・副会長・会長として64歳まで28年間務めさせて頂いた。平成11年8月1日から平成14年4月30日まで最初の介護認定審査会会長を、平成18年4月より平成24年3月まで6年間は看護学校長を、平成18年よりは埼玉県医師会理事を、平成22年4月よりは医師会長を拝命、それぞれ2年間務めた。また、副会長次代には平成16年4月1日から平成22年3月31日まで秩父市立病院の非常勤副院長も務めさせて頂いた。
医師会の多くの仕事の中で印象に残っていることを幾つか書き残す。
看護学校の仕事もその一つだが、細かいことは看護専門学校設立10周年および20周年記念誌に書いているので、ここでは私が校長としてやった主な仕事について書き留めておく。看護専門学校は開校当初より、実習にはスクールバスをチャーターし遠く関越自動車道で実習病院まで行かなくてはならない状況であった。校長としての私の一番の仕事は、当院を含めて地域内で実習が出来る体制にしたことだと思っている。地域唯一の看護師養成施設であり、地域医療の要とも言える、看護専門学校の存続にも関わる問題であった。「職員心得」を作ったのも有用なことであったと思っている。㉜
秩父市立病院非常勤副院長の仕事は、ほとんど空回りに終わった。残念ながら私の存在は、市立病院の充実には役に立たなかったと、情けなく思っている。
埼玉県医師会理事や郡市医師会長としての仕事は僅か2年間であったが、精一杯やった。毎月1回、浦和の県医師会で行われる理事会と医師会長会議では出来るだけ多くの発言をした。時には埼玉県庁の医療整備課に立ち寄り、多くの要望や意見、提言を行った。例えば地域医療再生基金の使途、公的病院と民間病院の不平等、医師不足・医師の地域偏在に対する施策、等々である。「自治医科大学の卒業生の9年間の義務年限の派遣先は何故公立病院だけなのか?」と正した。答えは「前例がない」と言うものであった。今に繋がる有効であったと思われるものもあったが、消化不良のものもあり、このことについて言い出せば切りがないので、ここでは多は語らない。振り返っても欲求不満が募るばかり、六十どころか古希を過ぎても耳順は叶わず、腹の立つことばかりである。』㊳
㉜平成20(2008)年11月5日発行 医師会誌第38号別冊 巻頭あいさつ「看護専門学校創立10周年を迎えて」
㊳平成23(2011)年3月発行 埼玉県外科医会誌第30号 論説「地方病院の医師不足と専門医制度に思うこと」
平成30年8月17日、ちちぶ医療協議会が開催された。今回は埼玉県より担当課の職員の方が、医師不足に対する埼玉県の現状認識とその対策についてのご説明に来られていたので、「現実に医師不足に対する支援は公的病院と私的病院の間に歴然とした格差があるが、その根拠はいかがな考えによるものか」と質問した。例えば、埼玉県では、医科大学入試・教育の地域医療枠等においての補助金(奨学金)返済の免除条件は公的病院の勤務に限るとしている。また、自治医科大学卒業生の派遣先も同様に公的病院に限るとの事である。すでに8年前の医師会長時代に県の医療整備課に対して同じ質問をしていたのであるが。「前例がない」で却下とは、理不尽と言わざるを得ない。
今回はここまででよかろう。チェストー!!!
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