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花輪理事長の独り言

院長ブログ

今回以降は、同じく130周年記念誌「私の20年」の中から、当院の移転についての経緯等を紹介したい。

 

その4

『平成192007)年に入り、私は病院の移転を真剣に考え始めた。この頃から平成232011)年3月・新病院開院後までの約4年間は私の人生の中で、最も忙しく、充実していた時期であった。病院の移転は当院にとっても私にとっても、病院史上最大の出来事であり、絶対に記録を残して置かなければならない。

秩父病院は創立110周年後、14年のエネルギーの蓄積と移転準備期間を経て、秩父の医療が抱える様々な問題に対するジレンマとはちきれそうな期待を胸に秘めて、平成233月に現在の地に移転した。自分でやるしかないと思った。この時期私は還暦を過ぎてはいたが、最も地域医療に対する気概に満ちていた時期であったと思っている。この頃の様々な出来事・私と病院の置かれた状況、自身の心情と行動、病院移転の経緯、そして3月5日に行った開院式、8日の仕事始め、その3日後(平成23311日)に起こった東日本大震災について書き留めて置きたい。

 

平成192007)年8月、私は先輩と友人からの急な誘いで、カナダのアラスカとの国境にあるランガラ島にサーモン釣りに誘われた。これは今までの人生最高の釣りであった。30ポンドを超えるキングサーモンが何匹も釣れた。これらを総て冷凍にして、日本に持ち帰り、大勢の人に差し上げる事が出来たのである。20180829181828.JPG

平成192007)年9月1日 サーモン試食会を兼ねて、第1回病院移転計画会議を市内の割烹料理屋で行った。ありがたいことに、この年の春頃より私の熊谷高校の友人達が「花輪の夢を叶える会」を作ってくれており、すでに移転候補地を模索中であった。主要メンバーは、山根益男・共和電機社長、平野和夫・元当院薬局長、内田武男・株式会社奥村組営業部長、浜田一彦・浜田設計社長であり、相談役的な存在として、江利川毅・当時人事院総裁、依田英男・りそな総合研究所副社長、総て熊谷高校の同窓生であった。加えて当院の前事務長・清川芳明氏が最前線の交渉人として働いてくれた。

移転を思い立ったことには幾つかの理由があった。当然、旧病院の老朽化と駐車場が狭くなったこともその一つであった。しかし、正直言って私は還暦であり、常にいつ医者をやめようかと考えていたことも事実である。潮時とも思えた。私は救急医療の大変さ、病院を続けることの困難さは嫌と言うほど知っている。悩んだ末、病院を続ける決心をした。120年以上続いてきた病院を私が終息することは意地でも出来ないという思いもあった。私のバカな性格である。どうせやるなら、少しでも地域に役に立つ病院にしたいと思った。救急医療の現状を見れば、相変わらず、脳卒中や心筋梗塞等は当地域で対処できない。秩父に住んでいたから不幸な結果になることは、医療者として痛恨の極みである。ならばヘリポートを備えよう、当地で対処できない患者さんは少しでも早く高次医療機関に運ばなければならない。そして少しでも医療の進歩に遅れないよう、優秀なスタッフが集まって来る病院にしようと考えた。とは言え、彼らの励ましがなかったら、敢えて困難な道に夢を追いかけることはしなかったと思う。改めて彼らに感謝したい。』

 

今回はこれくらいで良かろうかい  チェストー!!!

 

 

 


プロフィール
秩父病院理事長 花輪 峰夫

秩父病院理事長 花輪 峰夫

人と人との触れ合い医療を実践し、患者さんから信頼され、スタッフが気概を持って、地域に貢献できる病院を目指します。

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