花輪理事長の独り言
院長ブログ
当院の130周年記念誌、『私の20年』の中から、私が医師会長を務めていたころの事柄を何回かに分けて紹介したい。
その1
『医師会の仕事については、昭和59年(1984年)4月、36歳の時から理事・副会長・会長として64歳まで28年間務めさせて頂いた。平成11年8月1日から平成14年4月30日まで最初の介護認定審査会会長を、平成18年4月より平成24年3月まで6年間は看護学校長を、平成18年よりは埼玉県医師会理事を、平成22年4月よりは医師会長を拝命、それぞれ2年間務めた。また、副会長次代には平成16年4月1日から平成22年3月31日まで秩父市立病院の非常勤副院長も務めさせて頂いた。
医師会の多くの仕事の中で印象に残っていることを幾つか書き残す。
看護学校の仕事もその一つだが、細かいことは看護専門学校設立10周年および20周年記念誌に書いているので、ここでは私が校長としてやった主な仕事について書き留めておく。看護専門学校は開校当初より、実習にはスクールバスをチャーターし遠く関越自動車道で実習病院まで行かなくてはならない状況であった。校長としての私の一番の仕事は、当院を含めて地域内で実習が出来る体制にしたことだと思っている。地域唯一の看護師養成施設であり、地域医療の要とも言える、看護専門学校の存続にも関わる問題であった。「職員心得」を作ったのも有用なことであったと思っている。㉜
秩父市立病院非常勤副院長の仕事は、ほとんど空回りに終わった。残念ながら私の存在は、市立病院の充実には役に立たなかったと、情けなく思っている。
埼玉県医師会理事や郡市医師会長としての仕事は僅か2年間であったが、精一杯やった。毎月1回、浦和の県医師会で行われる理事会と医師会長会議では出来るだけ多くの発言をした。時には埼玉県庁の医療整備課に立ち寄り、多くの要望や意見、提言を行った。例えば地域医療再生基金の使途、公的病院と民間病院の不平等、医師不足・医師の地域偏在に対する施策、等々である。「自治医科大学の卒業生の9年間の義務年限の派遣先は何故公立病院だけなのか?」と正した。答えは「前例がない」と言うものであった。今に繋がる有効であったと思われるものもあったが、消化不良のものもあり、このことについて言い出せば切りがないので、ここでは多は語らない。振り返っても欲求不満が募るばかり、六十どころか古希を過ぎても耳順は叶わず、腹の立つことばかりである。』㊳
㉜平成20(2008)年11月5日発行 医師会誌第38号別冊 巻頭あいさつ「看護専門学校創立10周年を迎えて」
㊳平成23(2011)年3月発行 埼玉県外科医会誌第30号 論説「地方病院の医師不足と専門医制度に思うこと」
平成30年8月17日、ちちぶ医療協議会が開催された。今回は埼玉県より担当課の職員の方が、医師不足に対する埼玉県の現状認識とその対策についてのご説明に来られていたので、「現実に医師不足に対する支援は公的病院と私的病院の間に歴然とした格差があるが、その根拠はいかがな考えによるものか」と質問した。例えば、埼玉県では、医科大学入試・教育の地域医療枠等においての補助金(奨学金)返済の免除条件は公的病院の勤務に限るとしている。また、自治医科大学卒業生の派遣先も同様に公的病院に限るとの事である。すでに8年前の医師会長時代に県の医療整備課に対して同じ質問をしていたのであるが。「前例がない」で却下とは、理不尽と言わざるを得ない。
今回はここまででよかろう。チェストー!!!