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その12
『私なりに頑張ったことがある。
平成14(2002)年、当院は日本外科学会専門医制度関連施設に指定された。各学会の指導施設や関連施設になるには、それぞれ、独自の条件をクリアーしなければならないが、必須条件は専門医。指導医の在籍の有無である。この年、埼玉医大の外科の助教授まで務め、日本外科学会指導医の資格を持つ山崎達雄先生が副院長として当院に入職した。加えて私を含め二人の専門医がおり、当院が関連施設に指定されたのである。しかし、山崎先生の退職に伴い、この資格は取り消されてしまったのである。この資格は病院の格や質はもちろんであるが、特に医師の確保、若手医師の教育には是非とも欲しいものである。自分が指導医になるしかないと思った。それにはトップ名の論文が5編必要である。一念発起し、私は平成16(2004)年〜平成20年(2008)年、57歳から61歳の5年間に1年に1編ずつ、計5編の主に器械吻合に関する論文を書き、外科指導医を取得した。結果、失っていた学会関連施設に復帰できたのである。㊲これは大学に勤務する医者ならともかく、私のような小病院のアラ還外科医が簡単に出来るものではない。外科医としてのプライドと院長の意地、大げさに言うと病院の存続をも賭けた大仕事であったと思っている。㉔㉕㉖㉙㉚
昭和55年に本格的に秩父に帰って来て以来、平成2年に院長、平成10年に法人の理事長となったが、休むことなく働いた。手術は十分すぎるほどやった。何かに追われるように常に走っていた。110周年記念誌の作成(平成9年)もその一つである。病院建物の増改築は大きなものでも数回行なった。駐車場の整備拡張、院内施設の改装、いつも工事の音が聞こえていたような気がする。
平成10年以降も環境改善に邁進した。医者以外の私の仕事も日々膨張していった。医師会の仕事、秩父病院だよりの発刊、ホームページの開設・院長ブログ、病院機能評価、医療連携会、初期研修医の受け入れ、学会認定施設の取得、学会活動、論文、医師会誌・外科医会誌・医療系雑誌等への投稿、行政が開催する各種委員会での提言等々。その過程が、平成23年の病院移転に向かってのエネルギーを蓄えて行った様に思う。
ただ私も病院スタッフも、仕事一辺倒だった訳ではない。オンとオフの切り替えは私の特技、病院の伝統でもある。古く父の時代、私が幼少の頃より、海の家と称して、逗子・鵠沼・西伊豆等に連泊の病院旅行を行なっていた。小学校4年の時、父の引率で、看護婦さん達と富士山に登ったこともあった。私の代になってからも、様々なレクレエーションを企画した。病院旅行、ソフトボールやバレーボール大会、渓流釣り大会やバーベキュー、もちろんスキーやヨット旅行もやったし大勢で武甲山にも何度か登った。この20年を振り返っても同様の路線は続いているが、残念ながら、ゆったりとした時間の流れ、古き良き時代は回想の中にしかない。(職員旅行・皇居にて)
自分の個人的遊びは相変わらず続けている。喜望峰Ⅱによる、日本一周クルージングには、職員の何人かも参加した。しかし、正確に言うと『日本一周』は完璧ではない。なぜかと言うと。出発点の西伊豆松崎までは到達せず、茨城県のいわきサンマリーナで中断となったからである。船はここにいる間に買い手がつき、平成19年冬、日本海を韓国に渡っていった。その約4年後、大津波により、いわきサンマリーナは壊滅したのである。素敵なレストランもある、設備の整った綺麗なマリーナであった。係留されていた全ての船が消え去った。痛恨の念に堪えない。(いわきサンマリーナ)
平成20(2008)年、私は現在の喜望峰Ⅲを手に入れた。この船は平成20年3月に愛知県蒲郡のラグーナマリーナで進水し、その後瀬戸内海、大分などでクルージングを楽しみ、平成22年5月5日に沖縄の宜野湾マリーナに到着していた。平成23年の大津波の被害は全く受けずに済んだのである。
幸運と言う他はない。
今は、沖縄から帰って来て、平成26年5月より静岡県の富士山羽衣マリーナにいる。私の第三の故郷との言える松崎に頻回に釣りとクルージングに出かけている。最近では時々病院スタッフや研修医を連れて行っている。ちなみに、第二の故郷は新潟県湯沢である。私が5歳の頃よりスキーをはじめ、その後私のスキーを育ててくれたところである。第三の故郷へは20歳の頃より通っているので、もう50年になる。
| 更新時間 : 2018年9月21日 11:27