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その11
タイムリーを目論んだため、前後してしまったが、130周年記念誌の「私の20年」を最初から紹介したい。
『私の20年』
『私にとっては50歳から70歳、子曰く「吾、五十にして天命を知る 六十にして耳順い 七十にして心の欲する所に従いて矩 のり を踰えず」の時期である。
孔子の教えとは無関係に過ごした私の20年、仕事か遊びか、どちらを書こうか迷ったが、私らしく、ごちゃごちゃにして書き残しておくことにした。
平成10(1998)年5月、私はヨット「喜望峰Ⅱ」で西伊豆松崎より日本一周クルージングに出発した。仕事の合間を縫って、週末と連休、夏休み等に細切れの航海を続け、平成17(2005)年10月に福島県のいわきサンマリーナに到着するまで、7年半をかけた日本一周クルージングであった。㉑ 人から「良くそんな暇がありましたね」と聞かれることがあるが、振り返って、「自分でも良くやれたものだ」と思わないでもないが、決して仕事に手を抜いた訳でもない。仕事と遊びどちらも大好きであるが、一方だけでは長続きはしない。しばらく海にいると無性に仕事がしたくなり、しばらく仕事をしていると強烈に海に行きたくなる。オンとオフの切り替えはそれぞれを新鮮化し集中力とエネルギーを倍増する。こんな私の性分は一生変わらないと思っている。②③④⑨
私は50歳を過ぎた頃から、55歳、60歳、65歳で医者をやめる、と周囲に言ってきた。㉛ 今、古希を過ぎ、最近は東京オリンピックでやめると病院スタッフに公言している。「五十にして天命を知る」欠片もなかった。いずれにせよ、どちらか一方が全くなくなったら、生きていけないかも知れない気がしているが、論語の古希を迎えた人への教え「心の欲する所に従いて矩 のり を踰えず」の前半はともかく、後半を実践できるとは到底思えない。
この20年の医者としての仕事、外科医としての毎日の業務、外来、検査、手術は、多くの優秀なスタッフに恵まれ、さほどの苦労をしたことはない。以前の一時期、昭和55(1980 )年から平成3(1991)年の11年間、手術室の上の自宅に住み、外来、検査、手術をやり、毎日が当直であった頃と比べれば天国と地獄の差がある。当時は通常の宿直に加え、週2回の二次救急当番があった。自宅のドアーを開ければ人工呼吸器の音が聞こえた。起こされない日は無かった。① 今でもはっきりと覚えている悪夢のような出来事もあった。そうあれは、私が42歳、医者になって18年目(昭和の終わり頃)、もう出来ないものはないと自信過剰、怖いものはなかった。ちょうどその頃、常勤医師は父と私の二人だけとなってしまっていた。たて続けに、重症患者さんや手術後の患者さんをMRSA感染症で複数失ったのである。2週間ベットサイドでほとんど眠らずに治療に当たった。不整脈が出て、自分の命が削られて行くのが分かった。自分の身体を酷使することが患者さん達に報いる唯一のことと思った。天狗の鼻はへし折られ、精も魂も尽きた。医者をやめようと思った。そして親父もこう言った「峰夫、もうやめよう」。ただただ情けなく、悔しかった。それから、『何歳になったら医者をやめよう』が口癖になった。「四十にして不惑」ならぬ迷走であった。あの光景は未だに夢に出てきて魘されることがある。一生背負って行かねばならないと思っている。⑤
しかし、古希を過ぎた現在、多少は気力、体力、胆力、最近は視力が落ちてきたが、今でも自分の手術がない日は憂鬱である。ラパコレは好きであるし、腹腔鏡下手術にも興味がある。いくつかの新しい手術も開発した。鼠径、腹壁瘢痕ヘルニアに対する新しい術式や食道吻合におけるDST等である。根っからの手術大好き人間であることに変わりはない。院長室の書棚に昭和35年からの手術記録簿がある。昭和47年までのものは大半を父が執刀、その後30年位のものは私が執刀か、指導したものである。今までに、万の単位の手術を行ったと思う。私の財産である。
| 更新時間 : 2018年9月19日 18:35