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2018年9月
その12
『私なりに頑張ったことがある。
平成14(2002)年、当院は日本外科学会専門医制度関連施設に指定された。各学会の指導施設や関連施設になるには、それぞれ、独自の条件をクリアーしなければならないが、必須条件は専門医。指導医の在籍の有無である。この年、埼玉医大の外科の助教授まで務め、日本外科学会指導医の資格を持つ山崎達雄先生が副院長として当院に入職した。加えて私を含め二人の専門医がおり、当院が関連施設に指定されたのである。しかし、山崎先生の退職に伴い、この資格は取り消されてしまったのである。この資格は病院の格や質はもちろんであるが、特に医師の確保、若手医師の教育には是非とも欲しいものである。自分が指導医になるしかないと思った。それにはトップ名の論文が5編必要である。一念発起し、私は平成16(2004)年〜平成20年(2008)年、57歳から61歳の5年間に1年に1編ずつ、計5編の主に器械吻合に関する論文を書き、外科指導医を取得した。結果、失っていた学会関連施設に復帰できたのである。㊲これは大学に勤務する医者ならともかく、私のような小病院のアラ還外科医が簡単に出来るものではない。外科医としてのプライドと院長の意地、大げさに言うと病院の存続をも賭けた大仕事であったと思っている。㉔㉕㉖㉙㉚
昭和55年に本格的に秩父に帰って来て以来、平成2年に院長、平成10年に法人の理事長となったが、休むことなく働いた。手術は十分すぎるほどやった。何かに追われるように常に走っていた。110周年記念誌の作成(平成9年)もその一つである。病院建物の増改築は大きなものでも数回行なった。駐車場の整備拡張、院内施設の改装、いつも工事の音が聞こえていたような気がする。
平成10年以降も環境改善に邁進した。医者以外の私の仕事も日々膨張していった。医師会の仕事、秩父病院だよりの発刊、ホームページの開設・院長ブログ、病院機能評価、医療連携会、初期研修医の受け入れ、学会認定施設の取得、学会活動、論文、医師会誌・外科医会誌・医療系雑誌等への投稿、行政が開催する各種委員会での提言等々。その過程が、平成23年の病院移転に向かってのエネルギーを蓄えて行った様に思う。
ただ私も病院スタッフも、仕事一辺倒だった訳ではない。オンとオフの切り替えは私の特技、病院の伝統でもある。古く父の時代、私が幼少の頃より、海の家と称して、逗子・鵠沼・西伊豆等に連泊の病院旅行を行なっていた。小学校4年の時、父の引率で、看護婦さん達と富士山に登ったこともあった。私の代になってからも、様々なレクレエーションを企画した。病院旅行、ソフトボールやバレーボール大会、渓流釣り大会やバーベキュー、もちろんスキーやヨット旅行もやったし大勢で武甲山にも何度か登った。この20年を振り返っても同様の路線は続いているが、残念ながら、ゆったりとした時間の流れ、古き良き時代は回想の中にしかない。(職員旅行・皇居にて)
自分の個人的遊びは相変わらず続けている。喜望峰Ⅱによる、日本一周クルージングには、職員の何人かも参加した。しかし、正確に言うと『日本一周』は完璧ではない。なぜかと言うと。出発点の西伊豆松崎までは到達せず、茨城県のいわきサンマリーナで中断となったからである。船はここにいる間に買い手がつき、平成19年冬、日本海を韓国に渡っていった。その約4年後、大津波により、いわきサンマリーナは壊滅したのである。素敵なレストランもある、設備の整った綺麗なマリーナであった。係留されていた全ての船が消え去った。痛恨の念に堪えない。(いわきサンマリーナ)
平成20(2008)年、私は現在の喜望峰Ⅲを手に入れた。この船は平成20年3月に愛知県蒲郡のラグーナマリーナで進水し、その後瀬戸内海、大分などでクルージングを楽しみ、平成22年5月5日に沖縄の宜野湾マリーナに到着していた。平成23年の大津波の被害は全く受けずに済んだのである。
幸運と言う他はない。
今は、沖縄から帰って来て、平成26年5月より静岡県の富士山羽衣マリーナにいる。私の第三の故郷との言える松崎に頻回に釣りとクルージングに出かけている。最近では時々病院スタッフや研修医を連れて行っている。ちなみに、第二の故郷は新潟県湯沢である。私が5歳の頃よりスキーをはじめ、その後私のスキーを育ててくれたところである。第三の故郷へは20歳の頃より通っているので、もう50年になる。
| 更新時間 : 2018年9月21日 11:27
その11
タイムリーを目論んだため、前後してしまったが、130周年記念誌の「私の20年」を最初から紹介したい。
『私の20年』
『私にとっては50歳から70歳、子曰く「吾、五十にして天命を知る 六十にして耳順い 七十にして心の欲する所に従いて矩 のり を踰えず」の時期である。
孔子の教えとは無関係に過ごした私の20年、仕事か遊びか、どちらを書こうか迷ったが、私らしく、ごちゃごちゃにして書き残しておくことにした。
平成10(1998)年5月、私はヨット「喜望峰Ⅱ」で西伊豆松崎より日本一周クルージングに出発した。仕事の合間を縫って、週末と連休、夏休み等に細切れの航海を続け、平成17(2005)年10月に福島県のいわきサンマリーナに到着するまで、7年半をかけた日本一周クルージングであった。㉑ 人から「良くそんな暇がありましたね」と聞かれることがあるが、振り返って、「自分でも良くやれたものだ」と思わないでもないが、決して仕事に手を抜いた訳でもない。仕事と遊びどちらも大好きであるが、一方だけでは長続きはしない。しばらく海にいると無性に仕事がしたくなり、しばらく仕事をしていると強烈に海に行きたくなる。オンとオフの切り替えはそれぞれを新鮮化し集中力とエネルギーを倍増する。こんな私の性分は一生変わらないと思っている。②③④⑨
私は50歳を過ぎた頃から、55歳、60歳、65歳で医者をやめる、と周囲に言ってきた。㉛ 今、古希を過ぎ、最近は東京オリンピックでやめると病院スタッフに公言している。「五十にして天命を知る」欠片もなかった。いずれにせよ、どちらか一方が全くなくなったら、生きていけないかも知れない気がしているが、論語の古希を迎えた人への教え「心の欲する所に従いて矩 のり を踰えず」の前半はともかく、後半を実践できるとは到底思えない。
この20年の医者としての仕事、外科医としての毎日の業務、外来、検査、手術は、多くの優秀なスタッフに恵まれ、さほどの苦労をしたことはない。以前の一時期、昭和55(1980 )年から平成3(1991)年の11年間、手術室の上の自宅に住み、外来、検査、手術をやり、毎日が当直であった頃と比べれば天国と地獄の差がある。当時は通常の宿直に加え、週2回の二次救急当番があった。自宅のドアーを開ければ人工呼吸器の音が聞こえた。起こされない日は無かった。① 今でもはっきりと覚えている悪夢のような出来事もあった。そうあれは、私が42歳、医者になって18年目(昭和の終わり頃)、もう出来ないものはないと自信過剰、怖いものはなかった。ちょうどその頃、常勤医師は父と私の二人だけとなってしまっていた。たて続けに、重症患者さんや手術後の患者さんをMRSA感染症で複数失ったのである。2週間ベットサイドでほとんど眠らずに治療に当たった。不整脈が出て、自分の命が削られて行くのが分かった。自分の身体を酷使することが患者さん達に報いる唯一のことと思った。天狗の鼻はへし折られ、精も魂も尽きた。医者をやめようと思った。そして親父もこう言った「峰夫、もうやめよう」。ただただ情けなく、悔しかった。それから、『何歳になったら医者をやめよう』が口癖になった。「四十にして不惑」ならぬ迷走であった。あの光景は未だに夢に出てきて魘されることがある。一生背負って行かねばならないと思っている。⑤
しかし、古希を過ぎた現在、多少は気力、体力、胆力、最近は視力が落ちてきたが、今でも自分の手術がない日は憂鬱である。ラパコレは好きであるし、腹腔鏡下手術にも興味がある。いくつかの新しい手術も開発した。鼠径、腹壁瘢痕ヘルニアに対する新しい術式や食道吻合におけるDST等である。根っからの手術大好き人間であることに変わりはない。院長室の書棚に昭和35年からの手術記録簿がある。昭和47年までのものは大半を父が執刀、その後30年位のものは私が執刀か、指導したものである。今までに、万の単位の手術を行ったと思う。私の財産である。
| 更新時間 : 2018年9月19日 18:35
その10
『松陰は国を憂い、欧米列強による侵略、日本の消滅を危惧し、国を担う人材育成に渾身の意欲を込めて、松下村塾を創った。スケールや次元は違うが、私は昨今の極端な専門医教育の結果生まれた弊害と医師としての在り方や気概の欠如、萎縮する心を憂いている。
花仁塾の入塾資格は「志(こころざし)を持つ人」である。
私のような未熟者が、偉そうなことは言えないのであるが、幾つか『今の若い人』に歯がゆさを感じることがある。
サミュエルウルマンの「青春」という詩がある。マッカーサー始め、多くの政治、経済界のリーダー達が座右の銘とした詩で、私も大好きである。「青春とは人生のある時期をいうのではなく心の持ち方を言う。逞しき意志、豊かな想像力、燃ゆる情熱・・・安易を振り捨てる冒険心をさす。歳を重ねるだけで人は老いない。理想を失うとき初めて老いる。六十であろうと十六であろうと人の胸には驚異に魅かれる心、幼児のような未知への探求心・・・を持つことができる」で始まる。言ってみれば高齢者を励ます詩である。が、しかしである、私は『今の若い人』にこれらの若さの条件をあまり感じることがない。松陰は「諸君、狂いたまえ」と言った。私は「若さは馬鹿さ、馬鹿さは若さ」と思うのである。また、人のことは言えないが、視野の狭さ、労を惜しむ風潮も気になることの一つである。こういう自分の考えを少しでも伝えたいと思うのは私の思い上がりであろうか。「地域でしか良い医者は生まれない」は言い過ぎかもしれないが、若手医師の教育を、私の最後のライフワークにしようと思っている。
平成29(2017)年4月 第117回日本外科学会定期学術集会 特別企画(5)「今こそ地域医療を考えるー都市と地方の外科医療と外科教育の格差を解消
するにはー」のセクションで『研修医の視点に学ぶ格差解消への模索と地域医
療の役割』と言う演題でお話しした。当院で地域医療を学んだ初期研修医達が
研修後、都市(大学病院)と地方(地域病院)の違いをどのように感じたか?
を取り上げた。そこから格差というより、若手医師の教育には、都市と地域の
お互いが補填し合うこと、それぞれを循環すること、早い時期から地域医療を
知ることが重要と指摘した。当院の指導方針と研修医たちが感じた事柄は別に記しておく。大学等の指導陣へも多少のインパクトはあったと思っている』
今回はこれくらいで良かろうかい チェストー!!!
| 更新時間 : 2018年9月14日 18:30
その9
『研修医との付き合いの中で考え続けた。そして、一応の結論を得た。私の医師としての最終章の仕事を見つけた気がしている。それは残さなければならないものを、次代に伝えることである。
そんな訳で、平成27年10月1日、私は吉田松陰にかぶれ、松下村塾ならぬ、「花仁塾」を作った。
同年11月、埼玉医科大学主催の厚生労働省の臨床研修医指導者講習会に参加した。現在の若手医師教育の実際を自分の目で見てみたいと思った。部外者・高齢者は私一人であった。これほど疲れた講習会は初めてであった。WS(ワークショップ)GIO、OSCE、SEA、TF等の限りない英字略語を理解するだけで疲れた。そして私の教育にはこれしかないと思った。
「やって見せ、見せてやらせて、させて見て、ほめてやらねば人は動かじ」「話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず」「やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず」連合艦隊司令長官 山本五十六の言葉である。
『時代は変わったとか、古いとか、文句のある奴は勝手にほざけ。私は、医療は70%は進化し30%は変わらないか、むしろ退化した』と思っている。
ここ数年の私の医者としてのエネルギーはここにある。強烈な違和感と腹立たしさが「花仁塾」の根源である。㊾
さて、この30%の「まとめ」を書き留めて置きたい。
『今の若手医師教育に物申したい。極端な専門志向、縦割り、先進のみを追いかけ基本教育の欠如、臓器を見て全身を診ず、病気を見ても人を診ず、なんでも鏡視下手術、開腹も手縫いも糸結びも出来ない外科医、挿管も蘇生術も出来ない医者、訴訟が怖いから専門外は見ない方が良いと教育する指導医。医療の本質の喪失』と思うのである。『少なくとも一人の医師の守備範囲は極めて縮小、基本的考え方・手技は極端に退化し、結果、非効率で不必要な時間と労力、材料が必要となり、医療費は高騰を続けて行く』細かい様だがこれも指摘しなければ気持ちが晴れない。清潔と不潔の意識の欠如である。何もしないのにまず滅菌していないゴム手袋、その不潔ゴム手袋でカストに手を突っ込んだのを見たとき、腹部の診察でゴム手袋をして触診をしたのを見た時は唖然とした。なるほど自己の感染防止には必要であろうが、認識違いも甚だしい。創処置に際し、セッシやペアンで清潔ガーゼを掴む事は、今は無いらしい。何でも不潔ゴム手袋でワシ掴みである。視点は違うが、資源の無駄などには全く興味が無いのであろうか。どんな教えを受けているのか、腹立たしくさえある。自然とこれらの道具の扱いも上達しない。
EBMという決まり文句の影で、忘れさられて消えて行く残すべきものは少なくない』㊹50
㊹平成26(2014)年1月発行 埼玉県外科医会誌 第33号、論説「地域医療を支えるための当院の取り組み」 談話室「地方外科医のボヤキ・嘆き・呟き」
㊿平成29(2017)年4月28日受付、日本外科学会雑誌 第119巻 第1号:92‐94、201 第117回日本外科学会定期学術集会 特別企画(5)「今こそ地域医療を考えるー都市と地方の外科医療と外科教育の格差を解消するにはー」
5、研修医の視点に学ぶ格差解消への模索と地域医療の役割
今回はこれくらいで良かろうかい チェストー!!!
| 更新時間 : 2018年9月 7日 14:10
今回からは同じく130周年記念誌の中の「私の20年」の中から、当院で初期研修への思いと若手医師の教育に対して私の思うところを紹介する。
その8
『平成16(2004)年、臨床研修制度が発足し、平成17年度より最初の初期研修医が来てから、すでに13年になる。若い奴との付き合いは結構面白い。もうすでに140名を超える研修医と付き合っている。彼らから学んだものが多くある。学んだと言うより驚嘆させられたと言った方が良いかも知れない。「アッペて開腹するんですね。こんなにすぐ終わるんですか。ルンバールで手術が出来るんですね」彼らの驚きは私の学びでもあった。これは時代が変わったではすまされないと思った。「今の医師教育はどうなっているんだ」と正直腹が立った。
ここ数年私は怒ってばかりいる。㊻
私は自分を学研肌とは思っていないし、まずそれは無理であるが、探究心と冒険心は持っているつもりである。以前より多少の学会発表や駄文を投稿してはいたが、近年は学会に参加することがやや多くなった。「私は古いのであろうか」を確かめるために、他を見てみたくなって、学会や講習会に参加した。
平成27年4月、第115回日本外科学会定期学術集会のディベートセクション・アッペ、ヘルニアの『腹腔鏡vs開腹』の会場で、我慢できずに手を上げた。それぞれを「良し」と主張する二人の演者の対決方式である。納得できたこと、嚙み合わないこと、呆れたことが交錯したが、実感は「若い異次元の医師集団がなんだか勝手に騒いでいる」感じであった。急性虫垂炎の手術時期について、腹腔鏡支持派は膿瘍形成のような虫垂炎の場合、まず抗菌剤治療を行い、炎症が落ち着いてより腹腔鏡下手術を行うという。これをインターバルアッペンデクトミーと言うのでそうだ。ディスカッションは若手医師の教育におよび、双方とも視野の優位性を主張していた。最後に司会者より「フロアーからの発言はありますか」「フロアーには看護婦さんと二人でアッペをやっていた時代の先生方もおられると思いますが」との誘いに堪えられなくなった。以下の発言をした。「先ほどより興味深く拝聴させて頂きましたが、ディベートですので申し上げます。手術とはその字の通り、手で行うものです。診断においても、手の感覚、触診は重要です。手は精密なセンサーであります。また、指はメスであり、鉗子であり、手の平は鈎ともなる。私は組織に手、指先で触れてこそ手術が出来ると思っています。視覚のみならず、触覚も重要です。是非とも特に若手医師の教育にはお忘れなき様お願いします」
何を馬鹿なことを言っているんだと思って聞いていたので、結構気合は入っていた。会場は一瞬シーンとしてしまった。㊾
同年6月、第40 回日本外科系連合学会学術集会のシンポジウム・外科医を取り巻く社会的問題のセクションでシンポジストとして「極端な専門医志向の弊害と対策 地域病院の役割」というお話した。内容は最近の大学病院等の若手医師教育と風潮への批判と教育における地域病院の役割を指摘したものである』㊽
㊻平成26年(2014)年12月号 DOCTOR'Smagagin「総合医養成こそ地域病院の使命だ」
㊾平成27(2015)年12月25日、医師会誌45号、「定期学術集会に参加して思ったこと(特にアッペ・ヘルニアの腹腔鏡下手術と今後の私のライフワーク
㊽平成27(2015)年9月5日発行 秩父外科医会40周年記念誌「私の5年誌・病院移転から今」「極端な専門医志向の弊害と対策」(第40回日本外科系連合学会学術集会発表内容)「第29回埼玉県外科学会 学術集会(平成26年3月8日・秩父)
今回はこれくらいで良かろうかい チェストー!!!
| 更新時間 : 2018年9月 5日 14:16
その7
『その3日後である。
平成23(2011)年3月11日 東日本大震災が起きた。
その時、私は新しい院長室にいた。そしてこう思った「なんだ、3日天下だったか」思わず、引きつった不謹慎な笑いが出た。
移転した地は荒川の河川敷に盛り土した土地であった。病院ごと崩れると思ったのである
停電、電子機器全てストップ、自家発電機作動、しかし、大きな問題は起きなかった。患者さん達を病棟の南側に移し、帰途についたのは午前3時、公園橋から見た真っ暗な街は幻想的であった。
病院移転に関わった全ての人たちが好意的であった。同級生はもちろん、栗原稔前市長、久喜邦康現市長はじめ、市、県、国の行政の方々、地権者の方々や地元の方々に多大なご支援を頂いた。特に、山根、内田、平野氏ら高校の友人の力がなかったら移転は出来なかったに違いない。奥村組と田口設計、地元業者の方々は採算を度外視し、私の期待以上の素晴らしい病院を作ってくれた。
ヘリポート併設の病院らしくない急性期病院、木造平屋病棟、患者・職員とも和む環境、そして人が集まる病院である。
株式会社ベルクの故原島功氏からはヘリポート建設に対し多大なご寄付を賜った。秩父臨床医学研究所長の栗原俊雄氏にも、さらに秩父正峰会理事長の吉田廣文氏や山根益男氏には記念樹を頂いた。改めて心より感謝申し上げる次第である。
旧病院は秩父神社のご加護のもと、その隣、宮側町の地で120年以上続いて来たのであるが、移転に際し、薗田稔宮司様よりお許しを頂き、敷地内、ヘリポートに隣接して御社「秩父妙見社」に鎮座頂いた。本当に有難いことである。また、秩父神社の「北辰の梟」にちなみ、ご神木の銀杏の木で作った梟と少女像を待合室の梁に据えた。病院と患者さん達に変わらぬご加護があらんことを祈りたい。
当院は補助金と言う国民の税金と多くの方々のご好意とご苦労を頂いたことに一点も恥じることはない仕事を続けて来たと自負している。そして、今後も堂々とそれに恥じない貢献をして行きたいと、創立130周年を迎えた今、改めて肝に命じたいと思う』
今回はこれくらいで良かろうかい チェストー!!!
| 更新時間 : 2018年9月 3日 16:43
その6
『平成21年6月11日、突然秩父市からこの交付金に関する書類を提示された。しかし、提出期限は非常に短く、当初、9月1日とのこと、急がねばならなかった。その時点で具体的なことは全く決まっていなかった。毎日々日、誰かと、あるいは、どこかと交渉を続けた。総てが二転三転した。道路等インフラ整備の問題、秩父市、地権者への説明、大手スーパー会社との交渉等々。当初は現在の場所でなく、金仙寺に隣接する北側の土地が候補に上がった。和尚様にも快諾して頂いた。何種類かの設計図を作ってもらった。6月24、現状の土地に移転する構想を決め、さらに具体的な交渉に入った。市の担当者から提出期限は7月28日と通告があり、無理は元より承知、どうにか概略の書類を作り上げ間に合わせた。8月10日地権者と契約する。その後、基本計画が作成でき、さらに、友人の株式会社・奥村組の内田氏が紹介してくれた、田口継道建築設計事務所により、基本設計が出来上がって行き、軌道に乗ったかに見えた。ところがである。平成21(2009 )年8月末に行われた衆院選挙で自民党から民主党に政権交代。定住自立圏構想の継続が不透明との情報が入った。この構想そのものがなくなるかも知れない。
不安は募ったが、元々、補助金を期待して移転を考えた訳ではなかったと、自分を納得させ、粛々と計画を進めて行った。10月、近隣説明会 12月病院開設許可申請。とは言え、一旦甘い夢を見たのであるから、様々な思いがよぎった。友人たちは「止めるなら今しかない」と気遣ってくれた。
12月31日、私は迷っていた。もしも補助金が出ないなら、じっくりと、改めてやり直すこともあり得るかも知れない。正月中考え抜いた。
『一時は定住自立圏構想そのものがなくなるかも知れなかったが、先生の計画が評価され、民間への交付金制度もかろうじて残った』と関係者から聞かされた。これを聞き、私は今までにない喜びを感じた。初めて、公が私のやって来た事と、今、やらんとしている事を社会性、公益性のあるものと認めたと感じたからである。その時、交付金の額は、もはやどうでもよかった。ただただ嬉しかった。結果として交付金は当初の半額となったが、ご援助頂けたのである。ありがたいことであった。この時より、この計画に対する確信と勇気が生まれた様に思う。
平成22(2010)年1月確認申請。2月27日地鎮祭、新病院工事着工。
平成23(2011)年1月 新病院引き渡し。2月 医療機器搬入
平成23(2011)年3月5日 病院開院式。
3月7日入院患者さん搬送
平成23(2011)年3月8日 開院・診療開始
地鎮祭、開院式には多くの方々にご来席を賜った。(この時の式次第等は別に記念誌に残す)
地鎮祭で江利川毅さんが読んでくれた句「決断の人へ祝詞のあたたかき」は本当に嬉しかった』
今回はこれくらいで良かろうかい チェストー!!!
| 更新時間 : 2018年9月 1日 14:24