花輪理事長の独り言
最近痛切に思うこと2 ~失われていくもの~
① 触診と手術
まず患者を触れと教わった。アナムネーゼは重要とも教わった。画像診断が格段に進歩した今、視覚で簡単に診断がつくことも多い。成程、聴診はCTには遠く及ばない。しかし、雑音はCTでは分からない。急性虫垂炎の診断は、現在でも腹部触診が基本である。エコーやCTで所見がなくとも、血液検査が正常でも、触診で虫垂炎と診断できることも多くある。
手術とは正に字の通り、指はメスであり、鉗子であり、手のひらは鈎ともなる。同時に手は精密なセンサーである。組織に手、指先で触れてこそ手術が出来ると思っている。「左は世界を制す」と言う言葉がある。ボクシングの話であるが、手術でも通用する。左手の使い方が手術の良し悪しを決めると言っても良い。最近の若い先生達を見ていると、手が、あるいは意識が患者の組織から離れているという印象を受ける。組織を触らない、遠くから、道具を介して組織に触れているように思う。これはテレビゲームに慣れ親しんだことによるものか、あるいは、腹腔鏡等、遠隔操作の影響なのか、私には違和感がある。もっと組織と触れあうべきである。たまには眼をつぶり、指先に全神経を集中した方がよい。もっとも、以前より、手で組織に触ることを良しとせず、セッシや鉗子、メスを多用する方法が格好良い、きれいな手術とされたこともあった。よく、手を使うな、汚いと怒られた。確かにこれもその通りと思う。しかし、程度の問題、人間の体で最も敏感な手、指先の感覚を使わない手はない。もったいない。
② PTCD
40年くらい前、私が医者になった頃の超音波装置は殆ど見えなかった。従って、PTC、PTCDもエコーを使わず、一定の手順、基準に従って、刺すべき場所を頭の中でイメージして穿刺していた。私は今でもこの方法でやっているが、概ね成功する。現在はエコー下穿刺であるが、肝内胆管が拡張していないと出来ないという。この点、私の方法は拡張していなくても問題はない。もちろん拡張していればより簡単ではある。21ゲージの穿刺針であれば、数回刺したくらいでは、大事には至らないので、何回かトライすることができる。多少の拡張があれば90%成功する自信はあるし、拡張がない場合でもPTCはほとんど出来るので、この段階でたっぷりと造影をしておけば、ドレナージも容易となる。私はこの手技で緊急開腹になったことは一度もない。しかし、今だかつてこの手技を習得したいと私に願い出た医師は一人だけであった。おそらく消え去る手技の一つであろう。
③ 鎖骨下静脈よりのCV挿入
大学では鎖骨下静脈からの挿入は、気胸等の偶発症が多く危険とのことで禁止になったと聞いた。施設により様々ではあるが、内頸静脈が第1選択で、大学によっては、CV挿入に認定制度をもうけているようである。ポート挿入のため鎖骨下で行う場合でもエコーガイド下、セルジンガー方式を推奨しているという。しかし、患者の快適さや持続性を考えると、やはり、鎖骨下挿入は捨てがたい。では何故鎖骨下穿刺が危険かを考えてみると、幾つかのことがあげられる。まず、ベットサイド等、悪い体勢、条件下で行っていること。この手技は必ず透視台の等、何時でも透視できる状況下で行うべきである。そして頭を低くし、上半身の静脈を拡張させると同時に術者が快適な姿勢で行うことである。次に配慮することは、極端な脱水状態を改善しておくこと、術前の末梢血管よりの十分な補液が重要である。大学病院等ではCV挿入に透視台を使わせてもらえないというが、それは、医療者側の都合、問題にならない。これらのことを守り、手順に従って行えば、そんなに危険な手技ではないと考えるのだが。
④ におい、危険予知能力
五感のうちの臭覚のことではない。なんとなく感じる第六感のようなものだが、最近はそんなものを意識する医者は少ない。この能力は多くの場合、経験から熟成されるものと考えられ、特に苦い思いをした体験の多い程、また強烈な程、反省や後悔の念が深いほど養われる能力であると思われる。一種のトラウマみたいなものから生まれる防御反応かも知れない。しかし、今叫ばれている医療はEBMである。経験に基づいた医療とは対極をなす科学的、学術的なものである。私はこれを否とするものではない。しかし、いくら文献を検索し、他人の業績を集積してみても、直感的なにおいの感性や危険予知能力は生まれない。今臨床で足りないものは何かと問えば、客観的、他力本願的でないもの、すなわち主体的、情緒的な「ひらめき」である。これがなくなると医療が本来の人との関わりを失い、より無機質なものとなっていくような気がしてならない。
⑤ 手縫い縫合・吻合、その他
当院で最初に器械吻合を始めたのは昭和60年に行った下部直腸がんに対する低位前方切除術であった。胃切除後の再建に初めて器械吻合を行ったのは、平成2年の胃全摘後のRoux-en-Y再建法の食道空腸吻合である。この時の驚き、感激は今でもはっきりと覚えている。以来、この吻合の際の緊張と面白さは露と消えた。以後徐々に総ての消化管切除後に器械吻合を多用するようになった。今や標準術式といってもよい。一度この味を覚えてしまうと、ずるずるとはまり込み、抜け出ることが出来なくなる。私も元来、新しいもの好きであり、食道空腸吻合にダブルステープル法などを開発したり、BillrouthⅠ法や噴門側胃切除術後の再建、幽門側胃亜全摘術後のRoux-en―Y法およびBillrouthⅡ法における器械吻合の工夫などを学会に発表したこともあった。それ程器械吻合は外科医にとって魅力的である。しかし、最近では情けないことに、自分自身も器械吻合でないと安心できない心境にまで陥った。
以前、縫合・吻合法は断端吻合、層々吻合が推奨され、Gambeeの1層吻合や連続縫合が盛んに行われていた。粘膜面、あるいは漿膜面が接する縫合は嫌われていたと思う。ペッツは粘膜同志を合わせる縫合ではあったが、漿膜筋層縫合は必ず追加した。一方でAlbert(全層縫合)とLembert (漿膜筋層縫合)の組み合わせ.が一般的に行われていた。この場合でも全層縫合は断端が合うように気を使ったものである。
さて、現在はどうであろう。手縫い縫合の機会は大幅に減少した。器械縫合は接合面が漿膜面でも粘膜面でも問題ない。はたして手縫い縫合でも同様かどうかも興味あるところであるが、問題は手縫い縫合をやったことのない外科医が増加することである。手縫いでなければ出来ないケース、あるいは手縫いの方がより簡単で安全なケース等にも少なからず遭遇する。この時、手縫いの手技上における様々な工夫や配慮が必要となる。例えば、針のかけ方、位置、針の大きさ、糸の種類・太さ、結び方、その強さの程度、組織の把持の仕方、テンションのかけ方、等々数え上げれば切がないが、これらは普段からやっていないと出来ないのである。手縫い縫合の出来ない、器械吻合専門の外科医が出来上がってしまう。
その他、閉腹時に漿膜縫合で行う観音縫いというのをご存じだろうか。漿膜の断端が腹腔内に垂れ下がらないように、手を合わせるように縫合するやり方である。特に臍の周囲は漿膜が垂れ下がり易いので助手が糸を結ぶとき、手を差し伸べ、注意しろと教わった。成程、術後の癒着は臍の付近の腹壁に多い。最近では癒着防止用のフィルムがあるので気にしないのかも知れない。
機器を大切にしなさいとも教わった。コッヘルやぺアンで布を噛んだものなら、ひどく怒られた。「そのために布鉗子があるのだ。いざというとき外れるぞ」。確かにメッツェンバウムで糸は切らなかった。自分も反省しなければならない。
⑥一刀一拝
父が唱えていた言葉である。患者に対する敬意、手術に臨む自身の覚悟。当たり前のことであろう。
(一刀一拝(いっとういちはい):仏像彫刻の際に、一度刻むごとに一度拝む事から出た 言葉 敬いつつしむ心をたとえていい 一期一会の心にも通じる 一期は仏教用語で、人の 一生という意味 一生に一度だけの出会いである)
実に意味深い言葉である。
最後のもう一つ。「外科医は手術前には必ず手術書、解剖書をみて頭の中に叩き込み、術後は手術記録の正直な記載と反省、感想まで書きなさい。そしてその内容を必ず絵に書きながら反芻しなさい」私の恩師の教えである。その恩師の絵は正に画家顔負けであった。恩師の絵は要点が適確に描かれていた。私は絵が下手だが、何かの時に以前の手術記録を取り出しその日の手術の参考にすることがある。絵をみるだけで、簡単であったか、苦労したかが分かる。最近、電子カルテとなり、データーをとるための手術記録となる傾向があるが、これは好ましいことではない。下手でも良いから手術記録に絵をかいてもらいたいと思う。これをしない外科医はまず成長しないと思う。オペ簿は単に事務的な手術の記録ではない。執刀した手術を頭の中で思い描きつつ、丁寧に図示してこそ、手術の腕が上がると恩師から教わった。学生のとき、外科学の授業を受けた、日本医科大学第二外科主任教授の斉藤漠先生の手術記録は正に芸術であった。