花輪理事長の独り言
秩父病院物語(当院の昭和・平成を振り返って)
元号が令和となった。この機会に当院の歴史を改めて振り返って見たいと思う。詳細は創立110周年記念誌に詳しく記録してあるので、ここでは私の父、花輪吉夫が昭和初期に秩父病院の3代目院長に就任した以後の風景を徒然に、写真と共に振り返って見る。
昭和12年10月、当時、新潟医科大学の整形外科で修行中であった父は、突然、教室の主任教授・学長である本島先生に呼び出されたという。「お呼びでございますか」と父「お前を秩父に遣ることにした。秩父病院の院長が療養中の間、秩父病院の運営をやれ」「とんでもない私は行きたくありませし、到底できません」「何を云うか、お前ならやれると思うし、これは命令である」
このような事情で父は全く縁もゆかりもないこの秩父に赴任したのである。
その1
明治20年(1887年)に建てられた初代病院。その時の開院祝賀会で県知事の代理が読んだ祝辞。本物が院内に展示されている。明治35年の秩父郡大宮町寿娯録。
大正12年に建てられた2代目病院。昭和12年のこの病院より秩父病院物語を始めたい。
昭和12年父が秩父病院の3代目院長に就任した頃の風景である。最初の写真の一番左側と上の写真の中央は私の父で、左側は母と祖母である。父は恐らく30代前半か? 背景の大きな百日紅は移植し、今でも私の自宅で花を咲かせている。外科、整形外科、レントゲン科を標榜、電話番号は22番。
病院敷地は周囲の道より2から3mは高く、ちょっとした丘の上にあり、周囲の総てが石垣で囲まれていた。西側・県道側は病院への進入路に高さ5m位の四角い大きな大理石の二本の門柱があった。玄関には4×10m位の緩やかな坂を上る。坂は丸く刈り込まれた植栽が植わった石垣に挟まれていた。病院は木造づくりであったが、正面はタイル張りの二階建て、おしゃれな飾り屋根があった。いかにも大正モダン建築といった風情である。もっとも、私はこの屋根は知らない。私が生まれる前に、この屋根は火事で焼失していて、もっとシンプルになっていたのである。しかし、これ以外は私の記憶の中の病院と変わっていなかった。玄関の両脇には大きな丸石が鎮座して、その横にバランス良く刈り込まれた植栽。これも今では味わえないであろう「外来入り口」と言った雰囲気を作っていた。玄関入り口の狭さは茶室の様でもある。私が育った自宅は、正面に向かって左側にあり、木造平屋の日本家屋で、洋風の離れがあった。病院との間には、庭があり、真ん中に池、向こうに小さな社、手前に大きな木蓮と梅の古木が植わっていた。木蓮は現病院の敷地に移設し数年は元気であったが、一昨年に枯れてしまった。梅の古木は現病院のヘリポートの脇で、昔とまったく変わらず、毎春見事な花を咲かせている。自宅の母屋より病院へは、細い外廊下でつながっていた。
東の裏側、秩父神社側は、もろに木造の板張りで、これはこれで雰囲気があった。ここは「柞通り」に接し、向こうは秩父神社の森である。裏から母屋に入るにはやはり石段があった。
待合室
薬局
処置室
院長室
病棟
病室
手術室
急な階段
玄関のある中央は2回建で、玄関の奥は待合室、診察室、薬局と会計室、ここは小さな窓があり、待合室を繋がり、患者さんとやりとりできる。二階へは極端に急な階段を上らなければならない。二階には、応接室と看護婦さんの寮があった。
薬局の薬は今より品ぞろえが豊富である。病室はいつも家族が付き添っていた。病室内に石油?ストーブは今では考えられない。処置室はいかにも外科病院という感じで、手術室の無影灯は実に趣がある。
外科医師スタッフ看護婦さん達の充実ぶりは、今と変わらない。父、片田良行先生(片田医院・片田隆行先生の父上)、武島龍雄先生(元武島医院院長)、小泉忠彦先生(私の叔父)、豪華な顔ぶれである。