花輪理事長の独り言
平成31年春・雑感
先日、三十数年ぶりに研修管理委員会出席のため、日本医科大学武蔵小杉病院を訪ねた。私は47年前、当時日本医科大学第二病院と言っていた、この病院の外科に入局した。そして故田中映吾先生の元、医師・外科医としての全てを教わった。手術は臓器の別なく外科と名のつくものは、心臓以外はなんでもやらせてもらった。消化器に限らず、乳腺も甲状腺も肺も小児もやった。形成も脳外も整形も麻酔もやった。そんな時代と環境であった。
新丸子と武蔵小杉の駅や街は当時の面影は全くなかった。病院そのものも、私の知らない次の建物に変わっていたが、隣のグラウンドでは新病院新築移転とのことで、ちょうど地鎮祭が行われていた。診療科は内科も外科も、臓器別・専門科に細かく分かれていた。時代の流れを痛感した。しかし、私の主戦場であった3階建ての古い病棟のみ残っていて、医局と会議室はここの旧病室であった。医局の机の上に手術簿が無造作に数冊置いてあり、あとは棚に並べてあった。懐かしいOP簿である。当院も20年前まで、これと全く同じものを使っていた。パラパラと見開いて見た。しっかりと手術記録・所見や手技の絵が描かれていた。何かとても嬉しい気持ちになった。
「懐かしい第二病院の病棟 」
会議の前に消化器外科部長・谷合先生を表敬訪問した。50代の若い教授であった。もちろん彼を含め、この病院には私と一緒に働いていた人たちはもういない。それでも同窓であり、また同じ外科医でもあるため、お互いの知人は多く、楽しい有意義な話ができた。
「まだあの手術簿を使っているのですね。しっかり絵を描いている」と私。「そうです。手術後の記録、手術を振り返り絵を描くことは外科医の基本です」と谷合教授。「絵を描く事により解剖と手技をより理解できます。反省もできる、次はこうしようとか、絵を描かない外科医は進歩しませんね」と私は調子に乗って話した。
「武蔵小杉病院の手術簿1」
時代は流れても、変わらないものもある。変わってはいけないものがある。今日来てよかったとつくづく思った。秩父に帰った次の日、医局秘書さんに電話し、私が手術に入っている手術記録のコピーが欲しいとお願いした。おそらく1000件を下らないと思う。今でもその当時にやった手術の断片が脳裏に浮かぶことがある。肺癌の手術を最初にやったのも私だったと思う。若かりし頃の自分の手術記録を見てみたいと思うのは私だけであろうか。
「武蔵小杉病院の手術簿2」
最近、自分の歳を意識する機会が多くなった。そう、10年くらい前まではあまり意識したことはなかった。振り返って、肉体的体力を除けば自分がもっともエネルギーがあり、気力・胆力が充実していたのは、還暦の前後の頃と思う。論文を5編書き外科指導医の資格を取ったのもこの時期、意を決して病院を移転したこと、空を飛んだのは60歳を過ぎていた。
しかし、55歳であったか、スキー場のリフト売り場でシニア割引になった時、流石に悲しい気持ちになった。でも、この時はまだ「得した」と思う方が優っていた。
何年か前、山手線で席を譲られたことがあった。「結構です」とムッとして断った。あんなに悔しいこと、ガッカリしたことはなかった。心にグサッと何かが刺さった。「お前はジジーだ」とどめを刺された瞬間であった。
若者は子供達から「お兄さん・お姉さん」と呼ばれていて、ある時「おじさん・おばさん」と呼ばれるようになる。これはこれでショックである。
最初の孫の時は絶対に「おじいさん」とは呼ばさず、「グランパ」と呼びなさいと叱ったが、結局「じーじ」となった。2番目の孫はとうとう「おじいさん」と私を呼ぶ。今は悲しくも悔しくもない。なぜなら家系図的にも正真正銘の祖父なのだから。ただ他人に言われ、これを当たり前とし、許容した途端に、年齢以上に気持ちが老いるのである。悔しいと思い続けたいものである。
先日、教授の退任慰労会に出席した。教授の定年は65歳が一般的だが、私より6歳も若い。学会の重鎮の先生達の挨拶、どの方々も立派で偉そう、当然年上に見える。私の席は主賓に近い上席で、乾杯の後、最初に挨拶をした。今、現役でバリバリやっている教授達は55歳位が中心という。16歳も年下である。偉いお年寄りの先生方が多いなと思っていたが、ふと、200人からいるこの会場の出席者の中で、年齢は上から数えて3本の指に入るのでは?自分の年齢と立場を改めて意識した瞬間であった。俺はすでに終末期の医者かとも思った。一方で65歳の退任は若すぎるとも思った。
「慰労会」
誰しも、年齢による肉体的衰えは20代を過ぎた頃より感じるであろう。この感覚はスポーツをやっていると顕著である。しかし、衰え方は人により全く違う。ここで負け惜しみを言おう。今年の2月何年かぶりに、大学のスキー部のOB戦に参加した。現役の6割には勝った。もしも来年レース前に1週間ポールの練習をやれば、3番目位のタイムは出せると思う。研修医との腕相撲でも、6割位は勝っているので。勝率9割は筋トレ次第で可能である。しかしこれら肉体的能力は年々必ず衰えて行く。もう着岸の時、船を蹴って岸壁に飛び移ることは出来ない。
「20年前までの当院の手術簿」
では医者としての衰えはどうであろうか?これも負け惜しみかもしれないが、私は壮年期がピークであったとは思っていない。私は一般の定年の60歳、教授退任の65歳をとうに過ぎたが、現役を続けている。医療は急激に変化・進化ししているが、懸命に遅れない様努力しているつもりである。多少おこがましいが、私は理事長としての病院経営と院長としての役割・雑務、そして一臨床外科医としての仕事を一貫して行ってきた。私は歳をとったが、その分経験を積んだ。診た患者さんの数、手術の件数、範囲は大学の教授達には決して負けていないと思う。一般的定年の年齢より現在までも、それまでの延長上にある。良くも悪くも、私の様な医者はいないと思うのである。そして、手術の腕と思考はまだ伸びると信じている。なぜなら、根本的に私は手術が好きであるし、新しいものに興味がある。そしてこの半世紀に近い外科の歩みを、現場で体験してきており、継時的に過去と現状を比較できるからと考えている。それは手術のジャンルとか手技とかだけではない。私の性根は強欲と我儘と思っている。
「当院の手術簿・私の財産」
さて、医師として私の今後の役割、目標であるが、最近はっきりと見えて来た気がする。それは若い医師達への指導である。いや、伝える・見せるといったほうが良いかも知れない。
初期研修医が当院に来だしてから十二、三年になる。彼らの大学での指導医は私の息子より若いであろう、教授にしても世代が全く違う。指導者を含め若い人達は、今を知ってはいるが、過去は体験していない。新しいことが、すなわち進化・進歩・良いことではない。良いことは過去と比較して初めて分かるのである。今の教育体制では、若い医師達が自身で良し悪しを判断する機会や環境は少ないであろう。
だからこそ、私の様な医者に、出番が回って来たと感じるのである。ありのままを見せてやろうと思う。自慢も反省も外科医のやるせない気持ちも・自分の背中を見せたい。これは研修医のみに言うのではない。あとは彼らの勝手、見るものの性格・資質であろう。これからは「新しさ」に遠慮せず、今まで以上に自分の考えを主張しようと思う。頭と目と指先が動くうちに、堂々と私の体験を示し、残さなければならない多くのことを伝えるべきと思っている。もう我慢はしたくない。