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院長ブログ

秩父ミーティング・テキサスバーベキュー

10月14日(日曜日)、巴川オートキャンプ場で職員・家族、研修医・OBが集まり本場のバーベキューを味わいました。

幸い曇りがちではありましたが、時折☀もさし、子供達も存分に遊び、腹いっぱい食べました。リブステーキ、サーロインステーキ、若鳥の蒸し焼き、鹿肉ソーセージ、巨大サラダ、その他、数えきれない料理、最後に肉汁たっぷりハンバーガー。ともかく総て美味しかったです。森田さん、キャリーさん有難うございました。

また来春にやりたいと思います。さらに多くの参加を期待します。

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松崎クルージング

10月初旬の連休に台風をやり過ごし、松崎クルーズに行ってきました。今回は母校の研修医でヨット部OBと当院スタッフを連れて、クルーザーの醍醐味を味わってもらいました。

風速20メーター位吹きましたが、苦労した後は凪です。

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院長ブログ

二次救急医療体制 その2

 

平成30年7月4日のこのブロブに当院の夜間二次救急医療体制について、「段階的に縮小して行く方針である」という今後の方針を書きました。

今回は改めてその経緯と趣旨・理由を書き留めて置きたいと思います。

 

1、平成29年4月1日 院長ブログ に救急医療に対する今後の当院の方針として、

来年度(平成30年度)より段階的に縮小させて頂きたい旨と公的病院の役割について書きました。

 

2、平成29年9月 9月の秩父市報に同様の内容を書きました。(これはブログに紹介済)

 

3、平成30年4月23日 医師会長、広域の長である秩父市長に、当初の予定を1年延期し、平成31年度より、『日曜昼間、日曜夜間の救急担当辞退』したい旨、文章で通知しました。

 

4、平成30年7月4日 院長ブログ 130周年記念誌の20年を振り返って:当院の基本方針の中で、当院の夜間・日曜の二次救急診療を段階的に縮小する趣旨と理由を書きました。

 

5、今回(平成30年10月)、熟慮の末、下記の文章を医師会長および秩父市長あてに通知しました

 

救急担当辞退内容の変更について

 

 時下ますますご清祥の段、お慶び申し上げます。平素は格別のご高配を賜り、厚く御礼申し上げます。

さて、平成30年4月23日付で平成31年度の救急担当について、日曜昼間と日曜夜間の担当辞退をお願いしていた所ですが、諸事情を鑑み、平成31年度は現状通り行い、平成32年度の救急担当については日曜昼間と日曜夜間及び土曜夜間の担当を辞退したくここに通知させて頂きます。

私共が平成294月に救急担当の段階的縮小を表明してより、1年半が経過しました。平成32年度でまる3年となります。今後の1年半の間に、当地域の対処不能症例に対する対策と、より広域の医療連携システムの構築がなされる事を期待したいと考えます。ご理解の程、宜しくお願い致します。

                         医療法人花仁会 秩父病院院長 花輪

平成29年4月に私共が当院の夜間・日曜の二次救急診療の段階的縮小を表明してより1年半が経過しました。この間上記したように、機会をとらえて、「あくまで患者の立場に立ち、当地域のあるべき二次救急体制の見直し」について発信してきましたが、私が期待する前向きな対策は何一つ成されておりません。

 

今回の変更通知の意味は、平成32年度までの、さらに約1年半の間に、地域で困難な疾患・症例の二次から三次救急医療がより円滑に成されるような体制の構築を期待し、関係者全員の危機感と本気度・気概を喚起することが目的であります。全国標準の医療が為されない地域には、誰も住みたいとは思わないでありましょう。

もちろん私共も ①自院の機能の向上 ②さらに多くの高次医療機関と円滑な連携 ③画像転送や迅速な情報提供 ④救急担当医師の派遣依頼と人員交流 ⑤ヘリ搬送のさらなる有効利用等に努めて行きます。

早速、来る平成30年11月19日には、「秩父病院創立130周年記念医療連携会」を開催します。多くの高次医療機関の医療連携室の方々および医療福祉部会の市議会議員様にもご案内を差し上げております。この中で、当地域の救急医療の現状をご理解頂き、議論が深まることを期待しています。

現段階で、具体的に私の頭の中にあることは以下のものです。

 

1、まず現状を認識し、患者の立場に立って当地の救急医療を考えること。(当地には小児二次救急施設・脳梗塞対処病院がないこと、年間600件を優に超える管外搬送があること。産科施設・二次救急病院の減少、急激な医療の進化により高度医療が日常的に行われるようになり、相対的に対処不能症例が増加している事、それに伴い患者・家族の要望も変化していること、等々)

 

2、秩父市立病院の救急医療体制の充実(地域中核病院たる専門医療の整備。せめて脳梗塞に対するTPA治療が出来る体制の整備等、将来的目標、ビジョンを立てる)

 

3、当地域が医師不足地域かつ準医療過疎であることを踏まえ、より広域的救急医療体制の構築(すでに全県下で整備された脳梗塞にたいする収容病院群体制に加え、同様に急性心筋梗塞等にたいする体制整備)等に対し、当地域の行政、医師会その他医療関係者が積極的に関与し、県、国に対して要請すること。

 

4、その他、医師確保のための既成概念に囚われない実効性のある対策等、一歩踏み出すことを期待するものです。

 

 


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その14

さて、怒ってばかりいること、人に自分流を押し付けることは、年を取ったことの証拠である。「今の若い者は」と言う言葉は山本五十六長官も「禁句」と言っている。

彼はこうも言っている「苦しいこともあるだろう。言いたいこともあるだろう。不満なこともあるだろう。泣きたいこともあるだろう。これらをじっとこらえてゆくのが、男の修行である」

私はそろそろ耐用年数が切れかかっていることも、馬鹿さも若さもなくなりつつあることも自覚している。

振り返って、医者になってからここに至るまで、医師、病院の院長・理事長として私を支配して来た観念は『我慢』であった。㊸

孔子の言う「70歳の従心」は、私には到底無理である。こらえ性の無い私が、どうにかこの病院を維持して来たことが出来たのは、当然のことながら、周囲の支えがあったからである。

 

妻の支え、両親、子供達や孫という家族の存在があった。多くの人との触れ合い、友情、援助があった。平成307月現在、長女(福田千衣里)は秩父に孫(光志14歳)と住んでいる。次女夫婦(長谷川義朗・小百合)は私の自宅に隣接して家があり、二人の孫(さら5歳、慎之介1歳半)と暮らしている。長男(洋介)は実家に住み、この4月より歯科医師として秩父病院の勤務が始まった。3人の子供達と孫までもが、すぐ近くにいる。しかも、義理の息子を含む全員の子供達が秩父病院で医師、歯科医師として働いているのである。私にとってこれ以上の心の支えが他にあろうか。感謝しかない。

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加えて、私の特技、「オンとオフの切り替え」がこれを可能にしたと思っている。この20年間、私が健康を保てたのは、犬達のお陰である。レオはレオンベルガーという犬種で、体重は85キロあった。一度座り込んだらテコでも動かなかった。6歳で前足に骨肉腫ができ、大手術と化学療法を行ったが、逝ってしまった。ジャックはゴールデンレドリバーとしては破格に大きく、その引っ張り方は強烈である。ポン太はフレンチブルで中型犬であるが、ダッシュ力は半端ではない。彼らたちとの毎日のミューズパークまでの散歩は私の足腰を保っている。本当にピュアーで可愛い奴らである。ジャックは新病院開院の年、生後3ヶ月で我が家にやって来た。従って、新病院と同じ年を重ねている。㉟ 20181004163050.jpg

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 私は110記念誌に私はこう書いている。「25年間、私は常に走っていた。時には全力で、時にはフラフラと、時には立ち止まりたくなったり、リタイヤしたくなったが、振り返らずともかく走っていた。気持ちよく走ったこともあるが、どういう訳かゆったりと走った記憶がない・・・・どこまで走り続けることができるのか、正直言って私には自身がない。しかし、今までのような走り方でなく、もっとゆったりと踵を地につけて、大勢で励まし合いながら一歩ずつでも前に進むことができれば、どうにかこの小さな病院の歴史の中の自分の分担区間の次への中継点まではたどり着けそうな気がしている」と。今私は130周年記念誌の一ページをかきながら思う。「そうだよ、ゆったりとではなかったけれど、多くの人たちに支えられて、もう少しのところまで来たよ」「好きなことを好きなようにやって来ただけ」

孔子の言葉は、総てにおいて当てはまらなかったこれまでの私であるが、「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」正にそう思う。

しかし、幸か不幸か、欲深く未熟な私には、未だ自分の道が見えない

 

私の文献索引

 ① 昭和58(1983)年3月25日発行 医師会誌第2号「夢遊病者」

② 昭和60(1985)年10月30日発行 医師会誌第6号 「小笠原航クルージング航海記」(昭和60年6月5日~6月31日)

③ 平成元(1989)年7月10日発行 外科医会15周年記念誌「南の島の落とし物」(昭和61年 ヤップ島クルージング)

 ④平成元(1989)年10月6日発行 医師会誌第13号「イワナの話」

 ⑤平成3(1991)年7月1日発行 医師会誌第15号「ある日の夢」

 ⑥平成5(1993)年6月15日発刊 医師会誌第18号「福島先生へ」「親善ソフトボール大会」

 ⑦平成5(1993)年12月13日発刊 医師会誌第19号「夜明け考」

 ⑧平成6(1994)年7月15日発行 秩父外科医会20周年記念誌「水槽小話」

 ⑨平成6(1994)年8月5日発行 医師会誌第20号、「イルカからのメッセージ」

 ⑩平成9年(1997)年113日発刊 「秩父病院・百十周年記念誌」

 ⑪ 平成10(1998)年3月8日発刊 医師会誌第25号「第6回医療関係団体親善ソフトボール大会」

 ⑫平成11年(1999)年10月1日発行 秩父外科医会25周年記念誌「98年『喜望峰Ⅱ』クルージング」

 ⑬ 平成13(2001)年10月1日発行 医師会誌第30号 「岩田充先生を偲んで」「三上哲先生を偲んで」

 ⑭平成14(2002)年9月1日発行 医師会誌第31号「喜望峰Ⅱ日本一周クルージング(その1)」

⑮平成15(2003)年6月1日発行 医師会誌第32号「喜望峰Ⅱ日本一周クルージング(その2)」

⑯平成16(2004)年3月1日発行 医師会誌第33号「喜望峰Ⅱ日本一周クルージング(その3)」

⑰平成16(2004)年12月24日発刊 医師会誌第34号「喜望峰Ⅱ日本一周クルージング(その4)」―北前船の旅―」

⑱平成17(2005)年12月20日発行 医師会誌第35号「喜望峰Ⅱ日本一周クルージング(その5)―北海道の旅―」

⑲平成18(2006)年12月20日発行 医師会誌第36号「喜望峰Ⅱ日本一周クルージング(その6)-平成17年 秋  クルージング・帰航―」

⑳平成19(2007)年11月18日発行 医師会誌第37号「喜望峰Ⅱ日本一周クルージング(その7)ー突然の終焉、海と船への思いー」

*平成101998)年53日西伊豆松崎出航~平成172005)年1014日に福島県のいわきサンマリーナに到着するまでの7年間の航海と回想を医師会誌に計7回にわたり連載させて頂いた。

 

㉑平成20(2008)年5月30日 連載を一冊にまとめた航海記発刊 「『喜望Ⅱ』私の日本一周クルージング航海記」

 ㉒平成16年(2004)年7月1日発行 秩父外科医会30周年記念誌「秩父外科医会30周年によせて」

 ㉓平成16(2004)年12月24日発行、医師会誌34号「父・花輪吉夫と整形外科」

 ㉔平成16(2004)年 埼玉県医師会雑誌661号「当院における胃切除後器械吻合(縫合

 ㉕平成17(2005)年 埼玉県医学会雑誌第40巻第1号「幽門側亜全摘術における自動吻合器による再建(器械  吻合)の工夫」(第22回埼玉県外科集団会発表)

 ㉖平成18(2006)年、埼玉県医学会雑誌第40巻第2号「重積をきたし肛門外に脱出したS上結腸癌の1例(第23回埼玉県外科集団会発表)

 ㉗平成18(2006)年3月発行 埼玉県外科医会誌第25号 談話室「『知床』世界自然遺産に思う」

 ㉘平成19(2007)年3月発行 埼玉県外科医会誌第26号 挨拶「自己紹介」

 ㉙平成19(2007)年9月 消化器外科第30巻10号 通巻第375号 症例報告 ヘルス出版「食道胃、食道空腸吻合におけるダブルステイプリングテクニック『金属ワイヤー法』の経験」

 ㉚平成20(2008)年10月30日発行 日本外科系連合会誌第33巻5号「食道浸潤噴門癌に対し、左開胸開腹下にdouble stapling technique(DST)-金属ワイヤー法―にて食道胃吻合を施行した1例」

 ㉛平成20(2008)年11月5日発行 医師会誌第38号・群像2008「還暦外科医の呟き」

 ㉜平成20(2008)年11月5日発行 医師会誌第38号別冊 巻頭あいさつ「看護専門学校創立10周年を迎えて」

 ㉝平成21(2009 )年2月20日 秩父地域医療についての提言(20年度秩父地域医療協議会)

 ㉞平成21(2009)年10月 埼玉大学医療連携会で講演 「防災ヘリによる早朝夜間ドクターヘリ的運航の現状」

 ㉟平成21(2009)年12月25日発行 医師会誌39号「あいつの思い出」「ドクターヘリについての私見」

 ㊱平成22(2010)年12月25日発行 医師会誌40号 会長「はじめに」「分水嶺」「肉が大好き(草食系・肉食系)」

 ㊲平成22(2010)年12月31日発行 秩父外科医会35周年記念誌「アラ還の意地と欲」

 ㊳平成23(2011)年3月発行 埼玉県外科医会誌第30号 論説「地方病院の医師不足と専門医制度に思うこと」

 ㊴平成23(2011)年6月 埼玉医科大学医療連携会で講演 「秩父地域の災害・救急医療」

 ㊵平成23(2011)年12月25日発行、医師会誌第41号 会長「はじめに」「3・11その時あなたは」

 ㊶平成24(2012)年12月 MediCon.医療の最前線『秩父の山々に囲まれた緑豊かな「結界」」

 ㊷平成25(2013)年7月 DOCTORAES 郡市区医師会の現場を見てみよう

 ㊸平成25(2013)年12月25日発刊、医師会誌43号「『もういいかい』と『まあだだよ』のはざまで」

 ㊹平成26(2014)年1月発行 埼玉県外科医会誌 第33号、論説「地域医療を支えるための当院の取り組み」 談話室「地方外科医のボヤキ・嘆き・呟き」

 ㊺平成26(2014)11月 日本の元気な病院&クリニック 開放病床とオープンシステムで地域全体の」「総合病院化」を図る

 ㊻平成26年(2014)年12月号 DOCTOR'Smagagin「総合医養成こそ地域病院の使命だ」

 ㊼平成27年(2015)年3月発刊 埼玉県外科医会誌第34号 学術講演会 「第

29回埼玉県外科医会学術講演会」 談話室「夢の空中散歩」

 ㊽平成27(2015)年9月5日発行 秩父外科医会40周年記念誌「私の5年誌・病院移転から今」「極端な専門医志向の弊害と対策」(第40回日本外科系連合学会学術集会発表内容)「第29回埼玉県外科学会 学術集会(平成26年3月8日・秩父)

 ㊾平成27(2015)年12月25日、医師会誌45号、「定期学術集会に参加して思ったこと(特にアッペ・ヘルニアの腹腔鏡下手術と今後の私のライフワークについて)

 ㊿平成29(2017)年4月28日受付、日本外科学会雑誌 第119巻 第1号:92‐94、201 第117回日本外科学会定期学術集会 特別企画(5)「今こそ地域医療を考えるー都市と地方の外科医療と外科教育の格差を解消するにはー」

5、研修医の視点に学ぶ格差解消への模索と地域医療の役割

 51 平成29(2017)」年 インターネットサイトm3.com

 Vol.1 夢見た地域完結の医療「今は無力感と脱力感」

Vol.2 「総合医の養成」は地域病院の使命

 52 平成29年(2017)年 秩父市報 9月号

秩父の医療現場から 「救急医療の現状の課題と将来について」

 

私の意固地な考えと愚痴、自身への叱咤激励と多少の期待、「私の20年」は遺言のようなものになってしまい、文献(駄文)の集積は私の遺稿集の準備の様相となってしまった。

 私はそれで良しと思っている。もう我慢はしたくないと思う今日この頃である


院長ブログ

その13

『病院を建築中、ほとんど毎日、現場を見に行った。すると、ブーンという音に空を見上げると何かが飛んでいるのに気づくことが多くなった。モーターパラセールである。ゆったりと大空を漂っている。実に気持ちよさそうである。以前より気になってはいたが「誰が、どこから、どのように飛んでいるのであろうか」が無性に気になり始めていた。

誰しも子供の頃に空を飛んだ夢を見たであろう。私も幼少期にこんな夢をみた。それは必ず同じ夢で、秩父神社と自宅の間にある道を、両手を広げ全速力で駆けると、浮き上がるというものである。高さは1mか2mで、それ以上は上がらず飛ぶと言うほどではないので、もしかしたら本当に出来るのではないかと感じられ、この夢を見た時には必ず飛び起きてこれをやってみた。その度にいつも裏切られたが、もっと早く走れれば浮き上がるだろうと思って、あまりがっかりもしなかったように思う。「何時かは飛べるかも知れない」子供の夢はそんなもの、可能性に満ちている。

新病院の完成後、私は熊谷のモーターパラスクールに入門、訓練を開始した。平成232011)年104日初講習、1016日には朝霧高原に行き、初めてパラセールを体験した。タンデムといって、二人乗りの前の座席に乗り、ベテランのパイロットが空へ連れて行ってくれるのである。私は高所恐怖症ではないが、決して高いところに強くはない。20181003143605.jpg

平成232011)年11月、4回目の練習で、初めて空を飛んだ。久々の感激であった。その時の撮ってもらった写真、自分でもこんなに嬉しそうな顔を見たことがない。20181003143641.JPG

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その後、平成24年の元旦、新病院の上を始めて飛んだ。子供の時の夢が63歳になって叶ったのである。しかも自宅と新病院の上空を飛べたのであるから、これ以上の贅沢な満足はない。正に天にも昇る気持ちであった。㊼

 

平成24年、病棟の北側の隣接地の一部を借り、蕎麦の栽培を始めた。収穫して天日干し、そこから先は当院の看護師さんのお父さんでプロのお蕎麦屋(三千乃家)さんに打ってもらう、自家製蕎麦である。病棟の窓から患者さんが楽しめる様に赤い花の蕎麦を植えたのが最初である。大沢勝太郎さんから今は、田中英生、斎藤陽子さんに引き継がれているが、正に精魂込めた逸品である。

これを年末から春先にかけて、当院が日頃からお世話になっている方々にお配りしている。心からの御礼のつもりである。当たり前であるが、喜ばれなかったことはない。実際に世界一美味しい。汗も魂も入っているのであるから。20181003143824.JPG

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その12

私なりに頑張ったことがある。

平成142002)年、当院は日本外科学会専門医制度関連施設に指定された。各学会の指導施設や関連施設になるには、それぞれ、独自の条件をクリアーしなければならないが、必須条件は専門医。指導医の在籍の有無である。この年、埼玉医大の外科の助教授まで務め、日本外科学会指導医の資格を持つ山崎達雄先生が副院長として当院に入職した。加えて私を含め二人の専門医がおり、当院が関連施設に指定されたのである。しかし、山崎先生の退職に伴い、この資格は取り消されてしまったのである。この資格は病院の格や質はもちろんであるが、特に医師の確保、若手医師の教育には是非とも欲しいものである。自分が指導医になるしかないと思った。それにはトップ名の論文が5編必要である。一念発起し、私は平成162004)年〜平成20年(2008)年、57歳から61歳の5年間に1年に1編ずつ、計5編の主に器械吻合に関する論文を書き、外科指導医を取得した。結果、失っていた学会関連施設に復帰できたのである。㊲これは大学に勤務する医者ならともかく、私のような小病院のアラ還外科医が簡単に出来るものではない。外科医としてのプライドと院長の意地、大げさに言うと病院の存続をも賭けた大仕事であったと思っている。㉔㉕㉖㉙㉚

 

昭和55年に本格的に秩父に帰って来て以来、平成2年に院長、平成10年に法人の理事長となったが、休むことなく働いた。手術は十分すぎるほどやった。何かに追われるように常に走っていた。110周年記念誌の作成(平成9年)もその一つである。病院建物の増改築は大きなものでも数回行なった。駐車場の整備拡張、院内施設の改装、いつも工事の音が聞こえていたような気がする。

平成10年以降も環境改善に邁進した。医者以外の私の仕事も日々膨張していった。医師会の仕事、秩父病院だよりの発刊、ホームページの開設・院長ブログ、病院機能評価、医療連携会、初期研修医の受け入れ、学会認定施設の取得、学会活動、論文、医師会誌・外科医会誌・医療系雑誌等への投稿、行政が開催する各種委員会での提言等々。その過程が、平成23年の病院移転に向かってのエネルギーを蓄えて行った様に思う。

ただ私も病院スタッフも、仕事一辺倒だった訳ではない。オンとオフの切り替えは私の特技、病院の伝統でもある。古く父の時代、私が幼少の頃より、海の家と称して、逗子・鵠沼・西伊豆等に連泊の病院旅行を行なっていた。小学校4年の時、父の引率で、看護婦さん達と富士山に登ったこともあった。私の代になってからも、様々なレクレエーションを企画した。病院旅行、ソフトボールやバレーボール大会、渓流釣り大会やバーベキュー、もちろんスキーやヨット旅行もやったし大勢で武甲山にも何度か登った。この20年を振り返っても同様の路線は続いているが、残念ながら、ゆったりとした時間の流れ、古き良き時代は回想の中にしかない。20180921113215.jpg(職員旅行・皇居にて)

自分の個人的遊びは相変わらず続けている。喜望峰Ⅱによる、日本一周クルージングには、職員の何人かも参加した。しかし、正確に言うと『日本一周』は完璧ではない。なぜかと言うと。出発点の西伊豆松崎までは到達せず、茨城県のいわきサンマリーナで中断となったからである。船はここにいる間に買い手がつき、平成19年冬、日本海を韓国に渡っていった。その約4年後、大津波により、いわきサンマリーナは壊滅したのである。素敵なレストランもある、設備の整った綺麗なマリーナであった。係留されていた全ての船が消え去った。痛恨の念に堪えない。20180921113417.JPG(いわきサンマリーナ)

平成202008)年、私は現在の喜望峰Ⅲを手に入れた。この船は平成203月に愛知県蒲郡のラグーナマリーナで進水し、その後瀬戸内海、大分などでクルージングを楽しみ、平成225月5日に沖縄の宜野湾マリーナに到着していた。平成23年の大津波の被害は全く受けずに済んだのである。20180921113502.JPG

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幸運と言う他はない。

今は、沖縄から帰って来て、平成265月より静岡県の富士山羽衣マリーナにいる。私の第三の故郷との言える松崎に頻回に釣りとクルージングに出かけている。最近では時々病院スタッフや研修医を連れて行っている。ちなみに、第二の故郷は新潟県湯沢である。私が5歳の頃よりスキーをはじめ、その後私のスキーを育ててくれたところである。第三の故郷へは20歳の頃より通っているので、もう50年になる。20180921113700.JPG

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その11

 タイムリーを目論んだため、前後してしまったが、130周年記念誌の「私の20年」を最初から紹介したい。

 

『私の20年』

 

『私にとっては50歳から70歳、子曰く「吾、五十にして天命を知る 六十にして耳順い 七十にして心の欲する所に従いて のり を踰えず」の時期である。

孔子の教えとは無関係に過ごした私の20年、仕事か遊びか、どちらを書こうか迷ったが、私らしく、ごちゃごちゃにして書き残しておくことにした。

 

平成101998)年5月、私はヨット「喜望峰Ⅱ」で西伊豆松崎より日本一周クルージングに出発した。仕事の合間を縫って、週末と連休、夏休み等に細切れの航海を続け、平成172005)年10月に福島県のいわきサンマリーナに到着するまで、7年半をかけた日本一周クルージングであった。 人から「良くそんな暇がありましたね」と聞かれることがあるが、振り返って、「自分でも良くやれたものだ」と思わないでもないが、決して仕事に手を抜いた訳でもない。仕事と遊びどちらも大好きであるが、一方だけでは長続きはしない。しばらく海にいると無性に仕事がしたくなり、しばらく仕事をしていると強烈に海に行きたくなる。オンとオフの切り替えはそれぞれを新鮮化し集中力とエネルギーを倍増する。こんな私の性分は一生変わらないと思っている。②③④⑨  20180919183639.JPG

私は50歳を過ぎた頃から、55歳、60歳、65歳で医者をやめる、と周囲に言ってきた。㉛ 今、古希を過ぎ、最近は東京オリンピックでやめると病院スタッフに公言している。「五十にして天命を知る」欠片もなかった。いずれにせよ、どちらか一方が全くなくなったら、生きていけないかも知れない気がしているが、論語の古希を迎えた人への教え「心の欲する所に従いて のり を踰えず」の前半はともかく、後半を実践できるとは到底思えない。

 

この20年の医者としての仕事、外科医としての毎日の業務、外来、検査、手術は、多くの優秀なスタッフに恵まれ、さほどの苦労をしたことはない。以前の一時期、昭和55(1980 )年から平成31991)年の11年間、手術室の上の自宅に住み、外来、検査、手術をやり、毎日が当直であった頃と比べれば天国と地獄の差がある。当時は通常の宿直に加え、週2回の二次救急当番があった。自宅のドアーを開ければ人工呼吸器の音が聞こえた。起こされない日は無かった。 今でもはっきりと覚えている悪夢のような出来事もあった。そうあれは、私が42歳、医者になって18年目(昭和の終わり頃)、もう出来ないものはないと自信過剰、怖いものはなかった。ちょうどその頃、常勤医師は父と私の二人だけとなってしまっていた。たて続けに、重症患者さんや手術後の患者さんをMRSA感染症で複数失ったのである。2週間ベットサイドでほとんど眠らずに治療に当たった。不整脈が出て、自分の命が削られて行くのが分かった。自分の身体を酷使することが患者さん達に報いる唯一のことと思った。天狗の鼻はへし折られ、精も魂も尽きた。医者をやめようと思った。そして親父もこう言った「峰夫、もうやめよう」。ただただ情けなく、悔しかった。それから、『何歳になったら医者をやめよう』が口癖になった。「四十にして不惑」ならぬ迷走であった。あの光景は未だに夢に出てきて魘されることがある。一生背負って行かねばならないと思っている。⑤

しかし、古希を過ぎた現在、多少は気力、体力、胆力、最近は視力が落ちてきたが、今でも自分の手術がない日は憂鬱である。ラパコレは好きであるし、腹腔鏡下手術にも興味がある。いくつかの新しい手術も開発した。鼠径、腹壁瘢痕ヘルニアに対する新しい術式や食道吻合におけるDST等である。根っからの手術大好き人間であることに変わりはない。院長室の書棚に昭和35年からの手術記録簿がある。昭和47年までのものは大半を父が執刀、その後30年位のものは私が執刀か、指導したものである。今までに、万の単位の手術を行ったと思う。私の財産である。20180919183722.JPG

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その10

『松陰は国を憂い、欧米列強による侵略、日本の消滅を危惧し、国を担う人材育成に渾身の意欲を込めて、松下村塾を創った。スケールや次元は違うが、私は昨今の極端な専門医教育の結果生まれた弊害と医師としての在り方や気概の欠如、萎縮する心を憂いている。

 花仁塾の入塾資格は「志(こころざし)を持つ人」である。

 私のような未熟者が、偉そうなことは言えないのであるが、幾つか『今の若い人』に歯がゆさを感じることがある。

サミュエルウルマンの「青春」という詩がある。マッカーサー始め、多くの政治、経済界のリーダー達が座右の銘とした詩で、私も大好きである。「青春とは人生のある時期をいうのではなく心の持ち方を言う。逞しき意志、豊かな想像力、燃ゆる情熱・・・安易を振り捨てる冒険心をさす。歳を重ねるだけで人は老いない。理想を失うとき初めて老いる。六十であろうと十六であろうと人の胸には驚異に魅かれる心、幼児のような未知への探求心・・・を持つことができる」で始まる。言ってみれば高齢者を励ます詩である。が、しかしである、私は『今の若い人』にこれらの若さの条件をあまり感じることがない。松陰は「諸君、狂いたまえ」と言った。私は「若さは馬鹿さ、馬鹿さは若さ」と思うのである。また、人のことは言えないが、視野の狭さ、労を惜しむ風潮も気になることの一つである。こういう自分の考えを少しでも伝えたいと思うのは私の思い上がりであろうか。「地域でしか良い医者は生まれない」は言い過ぎかもしれないが、若手医師の教育を、私の最後のライフワークにしようと思っている。20180914183250.JPG

 平成292017)年4月 第117回日本外科学会定期学術集会 特別企画(5)「今こそ地域医療を考えるー都市と地方の外科医療と外科教育の格差を解消

するにはー」のセクションで『研修医の視点に学ぶ格差解消への模索と地域医

療の役割』と言う演題でお話しした。当院で地域医療を学んだ初期研修医達が

研修後、都市(大学病院)と地方(地域病院)の違いをどのように感じたか?

を取り上げた。そこから格差というより、若手医師の教育には、都市と地域の

お互いが補填し合うこと、それぞれを循環すること、早い時期から地域医療を

知ることが重要と指摘した。当院の指導方針と研修医たちが感じた事柄は別に記しておく。大学等の指導陣へも多少のインパクトはあったと思っている』20180914183336.jpg

 

今回はこれくらいで良かろうかい  チェストー!!!


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その9

『研修医との付き合いの中で考え続けた。そして、一応の結論を得た。私の医師としての最終章の仕事を見つけた気がしている。それは残さなければならないものを、次代に伝えることである。

そんな訳で、平成27101日、私は吉田松陰にかぶれ、松下村塾ならぬ、「花仁塾」を作った。20180907151431.jpg

同年11月、埼玉医科大学主催の厚生労働省の臨床研修医指導者講習会に参加した。現在の若手医師教育の実際を自分の目で見てみたいと思った。部外者・高齢者は私一人であった。これほど疲れた講習会は初めてであった。WS(ワークショップ)GIOOSCESEATF等の限りない英字略語を理解するだけで疲れた。そして私の教育にはこれしかないと思った。

「やって見せ、見せてやらせて、させて見て、ほめてやらねば人は動かじ」「話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず」「やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず」連合艦隊司令長官 山本五十六の言葉である。

『時代は変わったとか、古いとか、文句のある奴は勝手にほざけ。私は、医療は70%は進化し30%は変わらないか、むしろ退化した』と思っている。

ここ数年の私の医者としてのエネルギーはここにある。強烈な違和感と腹立たしさが「花仁塾」の根源である。㊾

さて、この30%の「まとめ」を書き留めて置きたい。

『今の若手医師教育に物申したい。極端な専門志向、縦割り、先進のみを追いかけ基本教育の欠如、臓器を見て全身を診ず、病気を見ても人を診ず、なんでも鏡視下手術、開腹も手縫いも糸結びも出来ない外科医、挿管も蘇生術も出来ない医者、訴訟が怖いから専門外は見ない方が良いと教育する指導医。医療の本質の喪失』と思うのである。『少なくとも一人の医師の守備範囲は極めて縮小、基本的考え方・手技は極端に退化し、結果、非効率で不必要な時間と労力、材料が必要となり、医療費は高騰を続けて行く』細かい様だがこれも指摘しなければ気持ちが晴れない。清潔と不潔の意識の欠如である。何もしないのにまず滅菌していないゴム手袋、その不潔ゴム手袋でカストに手を突っ込んだのを見たとき、腹部の診察でゴム手袋をして触診をしたのを見た時は唖然とした。なるほど自己の感染防止には必要であろうが、認識違いも甚だしい。創処置に際し、セッシやペアンで清潔ガーゼを掴む事は、今は無いらしい。何でも不潔ゴム手袋でワシ掴みである。視点は違うが、資源の無駄などには全く興味が無いのであろうか。どんな教えを受けているのか、腹立たしくさえある。自然とこれらの道具の扱いも上達しない。

EBMという決まり文句の影で、忘れさられて消えて行く残すべきものは少なくない』㊹50

 

㊹平成26(2014)年1月発行 埼玉県外科医会誌 第33号、論説「地域医療を支えるための当院の取り組み」 談話室「地方外科医のボヤキ・嘆き・呟き」

㊿平成29(2017)年4月28日受付、日本外科学会雑誌 第119巻 第1号:92‐94、201 第117回日本外科学会定期学術集会 特別企画(5)「今こそ地域医療を考えるー都市と地方の外科医療と外科教育の格差を解消するにはー」

5、研修医の視点に学ぶ格差解消への模索と地域医療の役割

今回はこれくらいで良かろうかい  チェストー!!!

 


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今回からは同じく130周年記念誌の中の「私の20年」の中から、当院で初期研修への思いと若手医師の教育に対して私の思うところを紹介する。

 

その8

『平成162004)年、臨床研修制度が発足し、平成17年度より最初の初期研修医が来てから、すでに13年になる。若い奴との付き合いは結構面白い。もうすでに140名を超える研修医と付き合っている。彼らから学んだものが多くある。学んだと言うより驚嘆させられたと言った方が良いかも知れない。「アッペて開腹するんですね。こんなにすぐ終わるんですか。ルンバールで手術が出来るんですね」彼らの驚きは私の学びでもあった。これは時代が変わったではすまされないと思った。「今の医師教育はどうなっているんだ」と正直腹が立った。

ここ数年私は怒ってばかりいる。

私は自分を学研肌とは思っていないし、まずそれは無理であるが、探究心と冒険心は持っているつもりである。以前より多少の学会発表や駄文を投稿してはいたが、近年は学会に参加することがやや多くなった。「私は古いのであろうか」を確かめるために、他を見てみたくなって、学会や講習会に参加した。

平成274月、第115回日本外科学会定期学術集会のディベートセクション・アッペ、ヘルニアの『腹腔鏡vs開腹』の会場で、我慢できずに手を上げた。それぞれを「良し」と主張する二人の演者の対決方式である。納得できたこと、嚙み合わないこと、呆れたことが交錯したが、実感は「若い異次元の医師集団がなんだか勝手に騒いでいる」感じであった。急性虫垂炎の手術時期について、腹腔鏡支持派は膿瘍形成のような虫垂炎の場合、まず抗菌剤治療を行い、炎症が落ち着いてより腹腔鏡下手術を行うという。これをインターバルアッペンデクトミーと言うのでそうだ。ディスカッションは若手医師の教育におよび、双方とも視野の優位性を主張していた。最後に司会者より「フロアーからの発言はありますか」「フロアーには看護婦さんと二人でアッペをやっていた時代の先生方もおられると思いますが」との誘いに堪えられなくなった。以下の発言をした。「先ほどより興味深く拝聴させて頂きましたが、ディベートですので申し上げます。手術とはその字の通り、手で行うものです。診断においても、手の感覚、触診は重要です。手は精密なセンサーであります。また、指はメスであり、鉗子であり、手の平は鈎ともなる。私は組織に手、指先で触れてこそ手術が出来ると思っています。視覚のみならず、触覚も重要です。是非とも特に若手医師の教育にはお忘れなき様お願いします」

何を馬鹿なことを言っているんだと思って聞いていたので、結構気合は入っていた。会場は一瞬シーンとしてしまった。㊾

同年6月、第40 回日本外科系連合学会学術集会のシンポジウム・外科医を取り巻く社会的問題のセクションでシンポジストとして「極端な専門医志向の弊害と対策 地域病院の役割」というお話した。内容は最近の大学病院等の若手医師教育と風潮への批判と教育における地域病院の役割を指摘したものである』

㊻平成26年(2014)年12月号 DOCTOR'Smagagin「総合医養成こそ地域病院の使命だ」

㊾平成27(2015)年12月25日、医師会誌45号、「定期学術集会に参加して思ったこと(特にアッペ・ヘルニアの腹腔鏡下手術と今後の私のライフワーク

㊽平成27(2015)年9月5日発行 秩父外科医会40周年記念誌「私の5年誌・病院移転から今」「極端な専門医志向の弊害と対策」(第40回日本外科系連合学会学術集会発表内容)「第29回埼玉県外科学会 学術集会(平成26年3月8日・秩父)

 

今回はこれくらいで良かろうかい  チェストー!!!

 


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その7

『その3日後である。

平成232011)年311日 東日本大震災が起きた。

その時、私は新しい院長室にいた。そしてこう思った「なんだ、3日天下だったか」思わず、引きつった不謹慎な笑いが出た。

移転した地は荒川の河川敷に盛り土した土地であった。病院ごと崩れると思ったのである

停電、電子機器全てストップ、自家発電機作動、しかし、大きな問題は起きなかった。患者さん達を病棟の南側に移し、帰途についたのは午前3時、公園橋から見た真っ暗な街は幻想的であった。

 

病院移転に関わった全ての人たちが好意的であった。同級生はもちろん、栗原稔前市長、久喜邦康現市長はじめ、市、県、国の行政の方々、地権者の方々や地元の方々に多大なご支援を頂いた。特に、山根、内田、平野氏ら高校の友人の力がなかったら移転は出来なかったに違いない。奥村組と田口設計、地元業者の方々は採算を度外視し、私の期待以上の素晴らしい病院を作ってくれた。

ヘリポート併設の病院らしくない急性期病院、木造平屋病棟、患者・職員とも和む環境、そして人が集まる病院である。

株式会社ベルクの故原島功氏からはヘリポート建設に対し多大なご寄付を賜った。秩父臨床医学研究所長の栗原俊雄氏にも、さらに秩父正峰会理事長の吉田廣文氏や山根益男氏には記念樹を頂いた。改めて心より感謝申し上げる次第である。

旧病院は秩父神社のご加護のもと、その隣、宮側町の地で120年以上続いて来たのであるが、移転に際し、薗田稔宮司様よりお許しを頂き、敷地内、ヘリポートに隣接して御社「秩父妙見社」に鎮座頂いた。本当に有難いことである。また、秩父神社の「北辰の梟」にちなみ、ご神木の銀杏の木で作った梟と少女像を待合室の梁に据えた。病院と患者さん達に変わらぬご加護があらんことを祈りたい。

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当院は補助金と言う国民の税金と多くの方々のご好意とご苦労を頂いたことに一点も恥じることはない仕事を続けて来たと自負している。そして、今後も堂々とそれに恥じない貢献をして行きたいと、創立130周年を迎えた今、改めて肝に命じたいと思う』

今回はこれくらいで良かろうかい  チェストー!!!

 


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その6

『平成21611日、突然秩父市からこの交付金に関する書類を提示された。しかし、提出期限は非常に短く、当初、91日とのこと、急がねばならなかった。その時点で具体的なことは全く決まっていなかった。毎日々日、誰かと、あるいは、どこかと交渉を続けた。総てが二転三転した。道路等インフラ整備の問題、秩父市、地権者への説明、大手スーパー会社との交渉等々。当初は現在の場所でなく、金仙寺に隣接する北側の土地が候補に上がった。和尚様にも快諾して頂いた。何種類かの設計図を作ってもらった。624、現状の土地に移転する構想を決め、さらに具体的な交渉に入った。市の担当者から提出期限は728日と通告があり、無理は元より承知、どうにか概略の書類を作り上げ間に合わせた。810日地権者と契約する。その後、基本計画が作成でき、さらに、友人の株式会社・奥村組の内田氏が紹介してくれた、田口継道建築設計事務所により、基本設計が出来上がって行き、軌道に乗ったかに見えた。ところがである。平成21(2009 )8月末に行われた衆院選挙で自民党から民主党に政権交代。定住自立圏構想の継続が不透明との情報が入った。この構想そのものがなくなるかも知れない。

 不安は募ったが、元々、補助金を期待して移転を考えた訳ではなかったと、自分を納得させ、粛々と計画を進めて行った。10月、近隣説明会 12月病院開設許可申請。とは言え、一旦甘い夢を見たのであるから、様々な思いがよぎった。友人たちは「止めるなら今しかない」と気遣ってくれた。

 1231日、私は迷っていた。もしも補助金が出ないなら、じっくりと、改めてやり直すこともあり得るかも知れない。正月中考え抜いた。

 『一時は定住自立圏構想そのものがなくなるかも知れなかったが、先生の計画が評価され、民間への交付金制度もかろうじて残った』と関係者から聞かされた。これを聞き、私は今までにない喜びを感じた。初めて、公が私のやって来た事と、今、やらんとしている事を社会性、公益性のあるものと認めたと感じたからである。その時、交付金の額は、もはやどうでもよかった。ただただ嬉しかった。結果として交付金は当初の半額となったが、ご援助頂けたのである。ありがたいことであった。この時より、この計画に対する確信と勇気が生まれた様に思う。

平成222010)年1月確認申請。227日地鎮祭、新病院工事着工。

完成まで約11カ月、至極順調に建築は進んだ。20180901142616.JPG

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平成232011)年1月 新病院引き渡し。2月 医療機器搬入

平成232011)年35日 病院開院式。

         37日入院患者さん搬送

平成232011)年38日 開院・診療開始

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地鎮祭、開院式には多くの方々にご来席を賜った。(この時の式次第等は別に記念誌に残す)

地鎮祭で江利川毅さんが読んでくれた句「決断の人へ祝詞のあたたかき」は本当に嬉しかった』

今回はこれくらいで良かろうかい  チェストー!!!

 


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その5

『休校になった東高校、秩父セメント社宅周辺、現在移転した影森の浦山ダム埋め立て地が候補に挙がった。その後、秩父太平洋セメント第Ⅰ工場跡地や第2工場周辺も浮上した。

埼玉県では、平成192007)年10月よりドクターヘリの運用が開始され、

平成212009)年7月より防災ヘリのドクターヘリ的運用も開始し、36524時間ドクターヘリによる患者搬送体制が整えられた。平成212009)年2月の労災事故では、私と岡部先生、当院のスタッフが真っ先に救出に当たったが、その後のヘリ搬送が功を奏した。㉞㉟

私はこのシステムの整備には当初より関わり、県知事や埼玉医大丸木理事長への要請等に腐心した。しかし、平成222010)年7月、埼玉県防災ヘリが山岳遭難者を救助中に墜落、5人が亡くなった。以後、防災ヘリのドクターヘリ的運用は低迷のやむなきに至るのである。㊴

平成192007)年当時、私は病院移転を考え出した時から、病院併設のヘリポートを作ろうと真剣に考えていた。それには広い土地が必要である。もっとも気に入ったのが、現在の影森の土地であった。120年以上続いて来た旧病院は秩父市のど真ん中、秩父神社のすぐ隣で駅にも近い。一方は郊外の河川敷の埋め立て地。土地の価値としてもアクセスも雲泥の差である。それでもヘリポートが欲しかったのである。屋上ヘリポートも考えたが、ヘリポートを併設可能な広く安全な土地と言う意味から、秩父太平洋セメント第1工場跡地と現在の土地に絞られて行った。平成202008)年に入っても並行して土地確保作業を続けた。ところが次から次へと様々な難題に直面した。工場跡地は様々な理由、(土地改良・会社の意向)等により消え、第1候補の影森の土地は広大で2万坪以上あるが、多数の地権者がおり、いずれ大手スーパー企業が進出するとのことで、多くの地権者が手付金を受け取っており、スムースには行かない。また、当時、行政は地元商店を守る意味から大店舗の進出を嫌い、インフラ整備には消極的で、地権者との折り合いも芳しくなかった。2万坪の土地のどこを借り受けるかも問題であった。

その頃、私は自院の移転と同時に、自分の頭の中で、この地に100床を超える規模のリハビリ施設等を誘致し、「医療福祉の里」ができないものかと真剣に夢見ていた。秩父地域にはこの分野も足りないのである。何度か複数の山梨の大規模リハビリ病院を見学に行った。埼玉医大第1外科教授の尾本良三先生を通じ、丸木清浩理事長にも何度かお願いした。前市長の栗原稔氏にも私の構想をお伝えし、ご協力をお願いした。私は秩父地域にとっても、埼玉医科大学の今後にとってもこの構想は大変有益と考えていた。しかし残念ながら、これは実現されなかった。

頭を切り替え、自身の病院移転に集中した。

ちょうどその頃、正にタイムリーと言う他ないが、平成212009)年度に総務省の定住自立圏構想が開始され、秩父市がその中心市に指定されたのである。

この結果、補正予算として、定住自立圏等民間投資促進交付金が予算化され、幸運にも当院の病院新設移転計画に交付金が支給されるかも知れないという状況が生まれたのである。この交付金は「あと一歩」で実現が期待される民間の取り組みを支援し、圏域全体の暮らしに必要な都市機能等を確保するため、国から交付を受けた都道府県が民間投資に係る初期費用の助成を行うというもので、対象事業は医療・福祉の充実、地域公共交通の充実等4分野であった。

交付金は総事業費の4050%と知らされた。千載一遇のチャンスであった。

 

ここで定住自立圏構想について触れておく。『地方から東京など大都市圏大都への人口流出を抑制するため総務省が推進する施策で、人口5万人程度以上で昼間人口が多い(昼夜間人口比率が1以上)都市が「中心市」となり、生活・経済面で関わりの深い「周辺市町村」と協定を締結し、定住自立圏を形成。中心市が策定する定住自立圏共生ビジョンに沿って、地域全体で、医療・福祉・教育など生活機能の強化、交通・ICTインフラの整備や地域内外の住民の交流、人材育成など人口定住に必要な生活機能の確保に取り組む』というものである。
 秩父市が「中心市」に指定されたきっかけは、山根氏の関係で、当時自治大学校校長の椎川忍氏を秩父に招いて、地域活性化等についてのご講演を頂いたのが最初と聞いている。その後何度か秩父に来ていただいて、ご講演をいただいたようである。私も移転に際して、ヘリポートの併設、ドクターヘリの実際等について、椎川氏と東京消防庁の専門官の方にアドバイスを頂いた事もあった。そんな経緯の中で、秩父市は中心市に立候補、めでたく「中心市」に指定されたのである。平成213月からは総務省より、高橋範充氏が秩父市に派遣された。平成21(2009)4月の秩父市市長選挙において、久喜邦康市長が誕生した。

私は、久喜新市長に定住自立圏構想に付いて、私の知る限りの知識を話し、また移転構想についても協力をお願いした』

 

㉞平成21(2009)年10月 埼玉大学医療連携会で講演 「防災ヘリによる早朝夜間ドクターヘリ的運航の現状」

 

㉟平成21(2009)年12月25日発行 医師会誌39号「あいつの思い出」「ドクターヘリについての私見」

 

㊴平成23(2011)年6月 埼玉医科大学医療連携会で講演 「秩父地域の災害・救急医療」

今回はこれくらいで良かろうかい  チェストー!!!

 


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今回以降は、同じく130周年記念誌「私の20年」の中から、当院の移転についての経緯等を紹介したい。

 

その4

『平成192007)年に入り、私は病院の移転を真剣に考え始めた。この頃から平成232011)年3月・新病院開院後までの約4年間は私の人生の中で、最も忙しく、充実していた時期であった。病院の移転は当院にとっても私にとっても、病院史上最大の出来事であり、絶対に記録を残して置かなければならない。

秩父病院は創立110周年後、14年のエネルギーの蓄積と移転準備期間を経て、秩父の医療が抱える様々な問題に対するジレンマとはちきれそうな期待を胸に秘めて、平成233月に現在の地に移転した。自分でやるしかないと思った。この時期私は還暦を過ぎてはいたが、最も地域医療に対する気概に満ちていた時期であったと思っている。この頃の様々な出来事・私と病院の置かれた状況、自身の心情と行動、病院移転の経緯、そして3月5日に行った開院式、8日の仕事始め、その3日後(平成23311日)に起こった東日本大震災について書き留めて置きたい。

 

平成192007)年8月、私は先輩と友人からの急な誘いで、カナダのアラスカとの国境にあるランガラ島にサーモン釣りに誘われた。これは今までの人生最高の釣りであった。30ポンドを超えるキングサーモンが何匹も釣れた。これらを総て冷凍にして、日本に持ち帰り、大勢の人に差し上げる事が出来たのである。20180829181828.JPG

平成192007)年9月1日 サーモン試食会を兼ねて、第1回病院移転計画会議を市内の割烹料理屋で行った。ありがたいことに、この年の春頃より私の熊谷高校の友人達が「花輪の夢を叶える会」を作ってくれており、すでに移転候補地を模索中であった。主要メンバーは、山根益男・共和電機社長、平野和夫・元当院薬局長、内田武男・株式会社奥村組営業部長、浜田一彦・浜田設計社長であり、相談役的な存在として、江利川毅・当時人事院総裁、依田英男・りそな総合研究所副社長、総て熊谷高校の同窓生であった。加えて当院の前事務長・清川芳明氏が最前線の交渉人として働いてくれた。

移転を思い立ったことには幾つかの理由があった。当然、旧病院の老朽化と駐車場が狭くなったこともその一つであった。しかし、正直言って私は還暦であり、常にいつ医者をやめようかと考えていたことも事実である。潮時とも思えた。私は救急医療の大変さ、病院を続けることの困難さは嫌と言うほど知っている。悩んだ末、病院を続ける決心をした。120年以上続いてきた病院を私が終息することは意地でも出来ないという思いもあった。私のバカな性格である。どうせやるなら、少しでも地域に役に立つ病院にしたいと思った。救急医療の現状を見れば、相変わらず、脳卒中や心筋梗塞等は当地域で対処できない。秩父に住んでいたから不幸な結果になることは、医療者として痛恨の極みである。ならばヘリポートを備えよう、当地で対処できない患者さんは少しでも早く高次医療機関に運ばなければならない。そして少しでも医療の進歩に遅れないよう、優秀なスタッフが集まって来る病院にしようと考えた。とは言え、彼らの励ましがなかったら、敢えて困難な道に夢を追いかけることはしなかったと思う。改めて彼らに感謝したい。』

 

今回はこれくらいで良かろうかい  チェストー!!!

 

 

 


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その3

『平成23926日に定住自立圏構想の一環として「ちちぶ医療協議会」が発足した。これは「地域医療を地域の基幹インフラと据え、医療に対する需給ギャップの解消を目指した事業を実施し、秩父定住自立圏の制度を活用して、地域医療の維持・向上を図ることを目的とする」と言うものである。当時私は、定住自立圏構想には少なからず関わってきており『これは正に官民一体となり関係者が総力を挙げて地域医療の難題に取り組む体制が作られた』と大喜びしている。加えて、『このちちぶ医療協議会が単なる机上の空論や既成概念に囚われた形式だけのシステム、補助金消費のための旗振り事業に終わらない』ことを期待すると書いている。『何をか言わんや』が今の心境である。

 

夜間二次救急輪番体制が7病院から3病院になってしまったことを懸念し、私は「自治体病院の勤務医の先生方にも、民間病院の救急医療等をご援助頂きたい」と訴えて、今こそ管民の別なく『地域全体で地域医療を守る』ことを提唱している。今にして思えば、実現すべくもないが。

ただ現在も続いている、医師会の先生方の救急へのご援助は誠にありがたく、感謝に堪えない。

 

救急医療に関連して、埼玉県赤十字血液センターにお願いし、当地(当院)に血液備蓄ができる様になったことは当地域の医療にとって非常に有益で画期的なことと思っている。血液センターには結構強引にかけあった。地域の特性を十分理解してもらった結果である。念願が叶い、これで産後の大出血等に対し、より迅速な緊急輸血が可能となった。

 

私は医師会長を一期2年でやめたが、その理由は決して、疲れたとか、オーバーワークとか、医師会に嫌気がさしたとかではない。この時期は病院の移転と重なっており極めて多忙ではあったが、最も気力が充実していた時期であった。様々な思いを凝縮した結果である。ただ、僅か2年の医師会長の仕事であったが、看護学校の校長職も含めて私にできることは総てやったと思っている。この内、何が有効で、何が意味を為さなかったか、未だに自分にも正確な判断できていないが、いくつかの良い仕事もやった。ともかくその時点ではやり切った感はあった。今にして思えば中途半端ではあったと思うものも多くあるが、思う様には行かないものである』

今回はこれくらいで良かろうかい  チェストー!!!

 


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その2

 『平成22年と23年発行の秩父郡市医師会誌の巻頭言、医師会長が書く「はじめに」を振り返って見る。㊱㊵

 私は医師会の役割として「医療人の集団として、地域社会における医療分野で組織的に貢献すること」加えて「地域で医師(医療)を育て、医師を確保し、地域全体で地域医療を守ること」を提言している。救急医療に対しての市民の理解と啓蒙、行政との綿密な連携、日本医師会、県医師会への積極的提言、より広域的視野から見た秩父地域医療体制の必要性、医師会員による二次救急病院の援助、定住自立圏構想に基づく、救急医療体制への補助制度等について書いている。

次の年は、当然一番に東日本大震災のこと、医師会で義援金を募り、総額500万円を被災3県の医師会に送ったこと、友人の秩父がルーツの大手スーパー「ベルク」の社長・原島功氏に頼んで、岩手県立大槌病院に自社のトラックで直接食材を送ってもらったことなどを書いている。大槌病院の岩田千尋院長は秩父出身で、医師会の副会長であられた、故岩田充先生の弟君、岩田産婦人科医院の院長、城谷誉子先生の叔父君である。平成235月4日、私はイチローズモルツを1本持って大槌町を訪ね、岩田千尋先生にお会いし、被災地の惨状を目の当たりにした。先生がすでに仮診療所を開設され頑張っておられた姿が目に浮かぶ。20180821143411.JPG

私は以前より「秩父地域保健医療協議会」において「秩父地域医療についての提言」と題し、勤務医不足に対する対策、中核病院たる秩父市立病院の在り方、救急医療の危機等の問題を指摘し、その解決法を提言してきたとも書いている。今回、改めて平成20年度の提言書を読み返してみて、唖然とした、私の頭と地域医療の現状は当時と変わらず、一歩も進歩していないと再確認できた。㉝ 振り返れば、平成16年(2004)年71日発行 秩父外科医会30周年記念誌に「秩父外科医会30周年によせて」の中に同じことを書いていた。それは、昭和581983)年325日発行 医師会誌第2号に寄稿した「夢遊病者」と題した文章にも全く同じ考えを書いていて呆れてしまったと書いているのである。このことは私が懸念する秩父地域医療の問題点と私の考えが、この35年間全く変わらない、進歩がないことを示している。いやむしろ後退していると言うべきであろう。

一民間病院の院長が行政や医師会に地域医療の危機を訴え、行政等にその解決

策を何度提言しても、「暖簾に腕押し」なのである。一次は無力感と脱力感し

かなかったが、まだどうにかしたいという思いが少しは残っている。』①㉒

51、52

 

㊱平成22(2010)年12月25日発行 医師会誌40号 会長「はじめに」「分水嶺」「肉が大好き(草食系・肉食系)」

㊵平成23(2011)年12月25日発行、医師会誌第41号 会長「はじめに」「3・11その時あなたは」

㉝平成21(2009 )年2月20日 秩父地域医療についての提言(20年度秩父地域医療協議会)

①    昭和58(1983)年3月25日発行 医師会誌第2号「夢遊病者」

㉒平成16年(2004)年7月1日発行 秩父外科医会30周年記念誌「秩父外科医会30周年によせて」

51 平成29(2017)」年 インターネットサイトm3.com

 Vol.1 夢見た地域完結の医療「今は無力感と脱力感」

Vol.2 「総合医の養成」は地域病院の使命

52 平成29年(2017)年 秩父市報 9月号

秩父の医療現場から 「救急医療の現状の課題と将来について」

 

今回はこれくらいで良かろうかい  チェストー!!!


院長ブログ

当院の130周年記念誌、『私の20年』の中から、私が医師会長を務めていたころの事柄を何回かに分けて紹介したい。

その1

『医師会の仕事については、昭和59年(1984年)4月、36歳の時から理事・副会長・会長として64歳まで28年間務めさせて頂いた。平成11年8月1日から平成14年4月30日まで最初の介護認定審査会会長を、平成184月より平成243月まで6年間は看護学校長を、平成18年よりは埼玉県医師会理事を、平成224月よりは医師会長を拝命、それぞれ2年間務めた。また、副会長次代には平成1641日から平成22331日まで秩父市立病院の非常勤副院長も務めさせて頂いた。

 

医師会の多くの仕事の中で印象に残っていることを幾つか書き残す。

看護学校の仕事もその一つだが、細かいことは看護専門学校設立10周年および20周年記念誌に書いているので、ここでは私が校長としてやった主な仕事について書き留めておく。看護専門学校は開校当初より、実習にはスクールバスをチャーターし遠く関越自動車道で実習病院まで行かなくてはならない状況であった。校長としての私の一番の仕事は、当院を含めて地域内で実習が出来る体制にしたことだと思っている。地域唯一の看護師養成施設であり、地域医療の要とも言える、看護専門学校の存続にも関わる問題であった。「職員心得」を作ったのも有用なことであったと思っている。㉜

 

秩父市立病院非常勤副院長の仕事は、ほとんど空回りに終わった。残念ながら私の存在は、市立病院の充実には役に立たなかったと、情けなく思っている。

 

埼玉県医師会理事や郡市医師会長としての仕事は僅か2年間であったが、精一杯やった。毎月1回、浦和の県医師会で行われる理事会と医師会長会議では出来るだけ多くの発言をした。時には埼玉県庁の医療整備課に立ち寄り、多くの要望や意見、提言を行った。例えば地域医療再生基金の使途、公的病院と民間病院の不平等、医師不足・医師の地域偏在に対する施策、等々である。「自治医科大学の卒業生の9年間の義務年限の派遣先は何故公立病院だけなのか?」と正した。答えは「前例がない」と言うものであった。今に繋がる有効であったと思われるものもあったが、消化不良のものもあり、このことについて言い出せば切りがないので、ここでは多は語らない。振り返っても欲求不満が募るばかり、六十どころか古希を過ぎても耳順は叶わず、腹の立つことばかりである。』㊳                    

㉜平成20(2008)年11月5日発行 医師会誌第38号別冊 巻頭あいさつ「看護専門学校創立10周年を迎えて」

 

㊳平成23(2011)年3月発行 埼玉県外科医会誌第30号 論説「地方病院の医師不足と専門医制度に思うこと」

 

平成30年8月17日、ちちぶ医療協議会が開催された。今回は埼玉県より担当課の職員の方が、医師不足に対する埼玉県の現状認識とその対策についてのご説明に来られていたので、「現実に医師不足に対する支援は公的病院と私的病院の間に歴然とした格差があるが、その根拠はいかがな考えによるものか」と質問した。例えば、埼玉県では、医科大学入試・教育の地域医療枠等においての補助金(奨学金)返済の免除条件は公的病院の勤務に限るとしている。また、自治医科大学卒業生の派遣先も同様に公的病院に限るとの事である。すでに8年前の医師会長時代に県の医療整備課に対して同じ質問をしていたのであるが。「前例がない」で却下とは、理不尽と言わざるを得ない。

 

今回はここまででよかろう。チェストー!!!

 


八丈島クルージング

今年の夏休みは八丈島に行った。沖縄から帰って来てより、この4年間はほとんど、西伊豆松崎の往復のみで、長いクルージングはやっていなかった。そんな訳で、昨年よりそろそろ遠くへ、また、小笠原にでも行きたいと思っていた。しかし、喜望峰Ⅲでは沖縄の行き帰りでもナイトクルージングと荒れた海の経験はなく、手始めに八丈島としたのである。八丈とした理由は他にもある。大きな回遊魚(カンパチ、ヒラマサ、マグロ)釣りたかったこと、八丈病院は当院と同様に日本医科大学の初期研修医の地域医療研修施設となっており、後輩たちが研修していること、そして何より、八丈病院の放射線技師長が当院の山中事務長と技師学校の同級生であり、色々と便宜を図って頂いたことである。

台風12号が行き過ぎたのを待って7月28日清水を出航、松崎で買い出し、仲間をのせ、午後出発、最初は風向きも良く、ほとんど帆走で7から9ノットで快走。しかし、石廊崎をかわす頃は、大きなうねりが残っており、風も登りいっぱい。さすがに久しぶりに味わう外洋の波は大きい。時々、スプレーをあびる。

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久々のナイトクルーズ、夜に備えて、ジブ、メインとも3ポイントリーフとしワッチ組んだ。  20180818190241.JPG   20180818190408.jpg

神子元島の灯台の灯を左後方に見る頃より、一見早そうに感じるが、GPSチャートではなかなか進まない。ワッチ交代の20時頃は、4ノット、実際、三宅島を横に見た後、御蔵島まで遅々として進まず、黒潮の真っただ中、逆潮に捕まったのである。急ぐ旅ではないので我慢して進む。船首のオーナーズルームのピッチングは半端ではない。ドーンと言う音とともに船体が波に打ち付けられる。船内でトイレに行くにも3点確保で動く。ワッチ交代し、夜明けにトローリング。いきなり良い型のカツオが釣れる。

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夜が明けて、黒潮を抜けたころより、快走、波も収まる。約20時間弱の航海で神湊港に到着。昼飯はカツオの刺身ともろもろ。

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三十数年前、33フィートの喜望峰1世で小笠原に行った。この時、八丈島には全員が船酔いでダウン、避難のような形で今回とは逆側の港、八重根港に逃げ込んだのであるが、それと比べれば、全く楽であった。やはり46フィートは違う、この船ならどこにでも行けるだろう。

翌日は釣り船をチャーターしカンパチ釣り、20キロの大物が釣れる。大きさ以外は全く感動の無い、釣りと言うより漁であった。魚は松崎に送り、松崎マリーナの濱田氏にさばいてもらい、刺身、煮物などなど、調理が大変だったと感謝、味は意外とさっぱり、癖がない。

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その次の日は八丈富士登山と夜は八丈病院の技師長とスタッフ、日本医科大学の研修医を招待して船でパーティー。飲みすぎて写真を撮ることを忘れる。

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八丈島滞在中に2回『見晴らしの湯』に行く。温泉にはうるさい私だが、今までの中で景色の良さから言って、5本の指に入る素晴らしい温泉であった。夕方は大海原の上の空間に、金星、木星、さらに地球に最接近した赤い火星を一度に見渡せることが出来た。夜の星の多さ、

天の川も久しぶりに見た。八丈富士の景観も空気の涼しさも爽快であった。次の台風準備のため、三宅島は割愛、帰航は黒潮に乗り、ほとんどセーリングで行きと比べ5時間くらい早く松崎に付いた。清水には、地球号と海上自衛隊の空母(護衛艦と呼んでいるが、どう見ても空母)がいた。今回のクルージングの経過は『花仁塾LINE』で実況中継した。

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院長ブログ

130周年記念Tシャツ

現在、11月に予定している、創立130周年記念医療連携会の準備と記念誌の作成に追われている。記念誌の職員全員の原稿は総て集まり、日頃お世話になっている医療機関の先生方やOBの先生方等よりのご祝辞、ご寄稿も概ね頂き、形が整いつつある。本当に有難いことである。心から御礼申し上げる次第である。今は写真や記念誌のデザイン、編纂作業に入った。

前回、当地域の救急医療(特に夜間二次救急体制)について、現時点での私の考えを記念誌より転載し紹介したが、今後、このブログに記念誌の内容を随時紹介して行きたいと思う。

 

 今年の夏は正に猛暑である。先日(平成30年7月23日)熊谷が暑さ日本一の記録を更新した。なんと41.1度であった。

 7月18日、やはり猛暑の中、130周年の記念事業に備え、ヘリポートに職員が集合し、ドローンによる撮影会を行った。130を人文字で描き、上空より撮影した。130周年の記念に職員がデザインしたTシャツを作成、全員がこれを着込んで撮影した。記念誌と連携会でこの写真を使おうと思っている。

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花の子ハウスのスイカ割り

今日(7月24日)は比較的暑さは和らぐ。

花の子ハウスではスイカ割が行われた。スイカは花の子農園自家製の大きなスイカである。子供達はおなか一杯。残りはやはり自家製のトウモロコシと一緒に職員食堂で振舞われた。

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救急医療

昨年の12月以来、私のブログはお休みしていました。一番の理由は、秩父病院創立130周年記念誌を創ろうと思い立ち、その準備で手が回らなかったからです。前回は創立110周年記念誌を発刊しましたが、この20年で医療も当院も大きく変わりました。

平成30年11月19日(月曜日)に130周年記念医療連携会を行おうと考えています。

 

昨年、(2017)年4月第117回日本外科学会定期学術集会において、 特別企画(5)で、「研修医の視点に学ぶ格差解消への模索と地域医療の役割」をお話しさせて頂いた後、このブログでも紹介しましたが、インターネットサイトm3.comの取材を受け、

 Vol.1 夢見た地域完結の医療「今は無力感と脱力感」

Vol.2 「総合医の養成」は地域病院の使命

がサイトにのりました。タイトルがかなり悲観的であったため、多くの方々より「先生どうしたの?」とご心配やら励ましやらのお言葉を頂きました。

また、2017年秩父市報9月号に秩父の医療現場から 「救急医療の現状の課題と将来について」を書きました。内容は「当院は夜間二次救急体制を段階的に縮小して行く、将来的に夜間救急体制を公的病院たる秩父市立病院に集約して行く」と言う提案です。

 また、4月12日に、正式に文章で秩父広域市町村圏組合と秩父郡市医師会に当院の方針を伝えました。

 

 以来、市・広域・医師会等でご心配頂いていることは承知しています。しかし、当院の申し出に対し、市は「再考を」との事のみで、私の提案に対しての具体的な意見や回答はなく、医師会やちちぶ医療協議会での議論も、何時もそうですが、私の指摘する問題はすり変えられ、違った方向に進んで行っているように思われます。私は、ただ疲れたから、大変だから救急をやめたいなどと言っているのではありません。もちろん無力感も脱力感もありません。ごく自然な前向きな提案と思っています。

 そこで、夜間二次救急を縮小する本意を知ってもらいたく、しつこい様ですが、何度目かの発信をしたいと思います。

当院130周年記念誌・当院の基本方針の中から抜粋してお話しします。現時点の私の考えです。

 

前文略、、、、、、。当院のもう一方の柱は救急医療である。「救急は医療の原点」は当院の理念であり、永遠に変わることはない。しかしながら、当地域の救急医療の実際を考えると、医療者の理念以前の問題として踏み外してならないものがある。それは我々には「患者に最適な医療を提供する義務がある」と言うことである。これは逆に言えば、「患者の権利」である。医療の進歩、高度化に伴い、地域内で行え得る医療行為は相対的に減少して来ている。先に述べた当院で行う手術の範囲の縮小と同じ意味を持つ。現状では全てを完結は不可能であり、最も大切なことは、対処不可能な症例の場合、「いかに早く患者さんを適切な治療のできる医療機関に送るか」である。病院移転に際し、ヘリポートを併設した所以はここにある。いや、そのために移転したと言ってよい。

患者さんの利益を中心に据えた時、秩父地域の救急システム、特に夜間救急に限界が来ている事は明らかである。

くどい様だが、医療の急激な進歩、人や医師の都市集中は地域内での完結を不可能にした。相対的に地域医療は弱体化しているのである。従って、より広い視野を持ち、より広域の医療体制しかないのである。現実を直視すべきである。この20年間で、私の考え方が最も変わったのはこの事である。『秩父地域完結医療はあり得ない』すでに現状の医療圏と言う狭いレベルでは地域医療は為すべきではない。平成30年1月より開始された、埼玉県急性期脳梗塞治療ネットワーク構想は大きな進歩と考える。

当院の様に夜間救急を一人の医師が全てを担うことなど、あまりに荷の重いことであり、結果として患者の権利を阻害することも有り得る。なにより医療者としての良心が許さないのである。

ではどうするか? 行政が、市民の理解の基、公費(税金)を有効に使い、より広域の医療・連携システムを作り上げる事を要請したい。具体的には、当地域で対処不可能な重症かつ緊急疾患に対する迅速で円滑な転送システムの構築である。ドクターヘリのさらなる活用、夜間のヘリ搬送、地域独自のドクターカーの整備と運営、当地域専用の後方病床の確保もその一つであろう。既成概念から飛び出し、知恵を使うべき時期である。当地域においては、公的病院たる秩父市立病院が、この使命を担うべきと考える。

 

問題はあくまで「夜間の当地域で対処不能な重症患者」のへの対応を問題にしているのであります。休日診療所や在宅当番の改善を要求しているのではありません。

医師会には、当院の夜間救急体制の段階的縮小の意味をご理解頂き、市や市立病院に対しての働きかけを期待したいと思います。


プロフィール
秩父病院院長 花輪 峰夫

秩父病院院長 花輪 峰夫

人と人との触れ合い医療を実践し、患者さんから信頼され、スタッフが気概を持って、地域に貢献できる病院を目指します。

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